いやはや。
パソコン崩壊(破壊ともいう)を機にだいぶん遠ざかってしまった自分blogへの道。
何かしら自分にとってくだらなく面白いことが書けたら良いけれど!
パソコン崩壊(破壊ともいう)を機にだいぶん遠ざかってしまった自分blogへの道。
何かしら自分にとってくだらなく面白いことが書けたら良いけれど!
ものに命が宿るとすれば・・・
2013年11月27日 memo コメント (2)昨日、我が家でソレは起きた。
帰宅後、気持ちを落ち着けてからHDDレコを
起動します・・・
起動します・・・
起動します・・・
って、起動しないじゃんか!!(TへT)
にわかには信じられず、一度冷静になるために
わざわざ買い物に出る。
まさか、ロイドを後追い?
それとも飽きることなくリピしまくる持ち主に嫌気がさしたのか!?
すわ蜂起!?
で、良く見たら電源スイッチが入ってなかっただけなんだけどね!(てへへ)
(朝ブレーカー落としちゃったときに、一緒に落ちたらしい)
それにしても、あ~焦った!
「大事にするからね・・・」と言いつつ早速リピしまくった私を赦しておくれ・・・HDDよ・・・
帰宅後、気持ちを落ち着けてからHDDレコを
起動します・・・
起動します・・・
起動します・・・
って、起動しないじゃんか!!(TへT)
にわかには信じられず、一度冷静になるために
わざわざ買い物に出る。
まさか、ロイドを後追い?
それとも飽きることなくリピしまくる持ち主に嫌気がさしたのか!?
すわ蜂起!?
で、良く見たら電源スイッチが入ってなかっただけなんだけどね!(てへへ)
(朝ブレーカー落としちゃったときに、一緒に落ちたらしい)
それにしても、あ~焦った!
「大事にするからね・・・」と言いつつ早速リピしまくった私を赦しておくれ・・・HDDよ・・・
アイライナーだけ引いてマスカラはつけない。
「雨かぁ・・・」と思いながらドアを開けると雨がピタリとやんだ。
ずーっと図書館で予約待ちだった本の順番が回ってきた。
ジャムが切れたので、ポンヌママンの新しいもの2つ挑戦してみる。
ドトールで一人ぼや~~っと過ごす。
週に一回ざっくり収支計算して、相変わらずのエンゲル係数の高さに溜息する。
ジャスミンティを飲みながら本を読む。
「李賀詩選」。
唐代の詩人は明らかに常人と異なる宇宙の中を歩んでいる。
李白は「天才」、白楽天は「人才」、そして彼を「鬼才」という。
遺された詩は241首、そのどれもが、
碧玉を雲花で洗い、女媧の嘆息を聞くが如しの世界観。
当時の詠みが分かるわけではないけれど、
それでも、その字面を見ただけでどきどきしてしまう。
1200年も前の作品を見て、わけもわからず鼓動を鳴らす人間がいる。
こういうとき、あぁ漢字を使う人間でよかったと心から思う。
文章を書く人は、同じ世界に住んでいて、でも持ってるレンズがそれぞれ違うという感じ。
詩人は、それぞれの人たちが自分の中に宇宙を抱えて生きているという印象。
言葉の重みや色や形や音が、私の知る世界とは別のかたちで存在している。
その響きにあてられてしまうと、なんでもない欠片がずうっと血の中で巡っていくような。
- - - - - - - - - - - - -
「天上謡」
天河夜転漂廻星
銀浦流雲学水声
玉宮桂樹花未落
仙妾採香垂珮纓
秦妃巻簾北牕暁
牕前植桐青鳳小
王子吸笙鵝管長
呼竜耕煙種瑤草
粉霞紅綬藕糸裙
青州歩拾蘭苕春
東指羲和能走馬
海塵新生石山下
- 「李賀詩選」岩波文庫
- - - - - - - - - - - - - -
やはり横書きだと伝わらないなぁ・・・・
押韻は「星・声・纓」、「暁・小・草」、「裙・春」、「馬・下」。
高校漢文の知識も少しは役に立つ。
違う世界を知るのが昔から好きだった。
それがどんなにくだらなかろうと、とっつきづらそうだろうと。
自分がその世界に吸収されるでもなく、反対に飲み込むでもなく、
星がぶつかってきた衝撃をそのままにしておきたかったし、今でもその節はある。
私の知ってる世界とこんなにも違うものがあってくれるという安心感、感動、のような。
所詮一体にはなれないけれど、だからこそ愛撫できるということもあるはず。
惹かれることに理由などない、ただ「好きだ」というだけ。
古典にはそういう感動がより複雑になる。
李賀の場合には、1200年の時空を飛び越えてぶつかってくれた、
私を揺さぶり続けてくれる、そのコントラストに目眩すら感じる。
「新しい」ということは、「今しがた生まれた」というそれ自体の「新しさ」「若さ」だけでなく、
出会う人にとって「鮮烈である」ということでもあると思う。
むしろ「老いて枯れた」といわれるものにこそ、「新しさ」を感じることだって。
他人にとってどう思われているものであろうと、自分のレンズで物を見ていたい。
難しいことではあるけど、「だから何?」なことかもしれないけど。
暇な時には、こんなめんどくさい戯言を繰りたくなるものなのです。
「雨かぁ・・・」と思いながらドアを開けると雨がピタリとやんだ。
ずーっと図書館で予約待ちだった本の順番が回ってきた。
ジャムが切れたので、ポンヌママンの新しいもの2つ挑戦してみる。
ドトールで一人ぼや~~っと過ごす。
週に一回ざっくり収支計算して、相変わらずのエンゲル係数の高さに溜息する。
ジャスミンティを飲みながら本を読む。
「李賀詩選」。
唐代の詩人は明らかに常人と異なる宇宙の中を歩んでいる。
李白は「天才」、白楽天は「人才」、そして彼を「鬼才」という。
遺された詩は241首、そのどれもが、
碧玉を雲花で洗い、女媧の嘆息を聞くが如しの世界観。
当時の詠みが分かるわけではないけれど、
それでも、その字面を見ただけでどきどきしてしまう。
1200年も前の作品を見て、わけもわからず鼓動を鳴らす人間がいる。
こういうとき、あぁ漢字を使う人間でよかったと心から思う。
文章を書く人は、同じ世界に住んでいて、でも持ってるレンズがそれぞれ違うという感じ。
詩人は、それぞれの人たちが自分の中に宇宙を抱えて生きているという印象。
言葉の重みや色や形や音が、私の知る世界とは別のかたちで存在している。
その響きにあてられてしまうと、なんでもない欠片がずうっと血の中で巡っていくような。
- - - - - - - - - - - - -
「天上謡」
天河夜転漂廻星
銀浦流雲学水声
玉宮桂樹花未落
仙妾採香垂珮纓
秦妃巻簾北牕暁
牕前植桐青鳳小
王子吸笙鵝管長
呼竜耕煙種瑤草
粉霞紅綬藕糸裙
青州歩拾蘭苕春
東指羲和能走馬
海塵新生石山下
- 「李賀詩選」岩波文庫
- - - - - - - - - - - - - -
やはり横書きだと伝わらないなぁ・・・・
押韻は「星・声・纓」、「暁・小・草」、「裙・春」、「馬・下」。
高校漢文の知識も少しは役に立つ。
違う世界を知るのが昔から好きだった。
それがどんなにくだらなかろうと、とっつきづらそうだろうと。
自分がその世界に吸収されるでもなく、反対に飲み込むでもなく、
星がぶつかってきた衝撃をそのままにしておきたかったし、今でもその節はある。
私の知ってる世界とこんなにも違うものがあってくれるという安心感、感動、のような。
所詮一体にはなれないけれど、だからこそ愛撫できるということもあるはず。
惹かれることに理由などない、ただ「好きだ」というだけ。
古典にはそういう感動がより複雑になる。
李賀の場合には、1200年の時空を飛び越えてぶつかってくれた、
私を揺さぶり続けてくれる、そのコントラストに目眩すら感じる。
「新しい」ということは、「今しがた生まれた」というそれ自体の「新しさ」「若さ」だけでなく、
出会う人にとって「鮮烈である」ということでもあると思う。
むしろ「老いて枯れた」といわれるものにこそ、「新しさ」を感じることだって。
他人にとってどう思われているものであろうと、自分のレンズで物を見ていたい。
難しいことではあるけど、「だから何?」なことかもしれないけど。
暇な時には、こんなめんどくさい戯言を繰りたくなるものなのです。
女性の歌声が好きだったのは随分前からだった。
なのにオンナノコの歌にはあまり惹かれることもなく、
子供時代を過ごした田舎には音楽を聞きに行く文化がなかったので、
自然CDで流通している音楽には疎くなっていた。
ネットをやるようになってほんとにすごいと思うのは、
(それが法的権利的に許されてるかは別として)
時空をすっとばして自分を捉えて離さないものに出会えること。
音楽や歌も。
気持ちや身体が疲れたときに染み込んでくるのは、
大人の女の人が歌う歌。
実力派すぃんがーちゃんには動かされない所がぐらぐら揺らされる感じ。
たとえば、
「Carole King, You’ve got a friend」
http://www.youtube.com/watch?v=rJPgxEi2BM8
「倍賞千恵子, 宵待草」
http://www.youtube.com/watch?v=rJPgxEi2BM8
など。
考えてみると、
私にとっての好みはかなり、「母の歌」に影響されている。
歌手でもなんともなく、カラオケにもめったに行かない。
母として私に歌ってくれた歌。
洗濯物をたたみながら、料理をしながら、アイロンをかけながら口ずさんでいた歌、その声。
- - - - - - - - - -
最近、なぜだかわからないけど、
ほんの子供の頃の母との記憶が突然蘇ってくる時がある。
それは名前のつけられる行事でも大事件でもない。
別珍のリボンで初めて三つ編みをしてくれた時の、鏡台ごしの母の顔。
母が実家に帰っていた時、一人で夜を迎えるのが怖くなって電話した時の、
「夢の国で会いに行くから大丈夫だよ」という声。
風邪で寝込んでいたときに、
「今日は特別」と言って、苺と見たことない形のスプーンを硝子の器で渡してくれたときの
あの気持ち。
そういう記憶の切れ端が、夕方電車に乗っていると急にやってくる。
きっと母には記憶されてないだろう、私だけの記憶。
考えてみると、もうすぐ母が私を産んだ年齢になるのだった。
今度母に話してみようかな。
他のどのお母さんたちより背が高く、料理が上手く、サバサバしていた母。
きっと、「なにそれ~そんなことあったっけ?」と言うに違いないけど。
===
↑の動画たちとはちょいと系統がちがうかもしれないけど。
「森山愛子,赤とんぼ」
http://www.youtube.com/watch?v=i8FbONpEroQ
愛子ブッシー(懐)とシンディーの打たれてる様子がツボで見てしまう。
なのにオンナノコの歌にはあまり惹かれることもなく、
子供時代を過ごした田舎には音楽を聞きに行く文化がなかったので、
自然CDで流通している音楽には疎くなっていた。
ネットをやるようになってほんとにすごいと思うのは、
(それが法的権利的に許されてるかは別として)
時空をすっとばして自分を捉えて離さないものに出会えること。
音楽や歌も。
気持ちや身体が疲れたときに染み込んでくるのは、
大人の女の人が歌う歌。
実力派すぃんがーちゃんには動かされない所がぐらぐら揺らされる感じ。
たとえば、
「Carole King, You’ve got a friend」
http://www.youtube.com/watch?v=rJPgxEi2BM8
「倍賞千恵子, 宵待草」
http://www.youtube.com/watch?v=rJPgxEi2BM8
など。
考えてみると、
私にとっての好みはかなり、「母の歌」に影響されている。
歌手でもなんともなく、カラオケにもめったに行かない。
母として私に歌ってくれた歌。
洗濯物をたたみながら、料理をしながら、アイロンをかけながら口ずさんでいた歌、その声。
- - - - - - - - - -
最近、なぜだかわからないけど、
ほんの子供の頃の母との記憶が突然蘇ってくる時がある。
それは名前のつけられる行事でも大事件でもない。
別珍のリボンで初めて三つ編みをしてくれた時の、鏡台ごしの母の顔。
母が実家に帰っていた時、一人で夜を迎えるのが怖くなって電話した時の、
「夢の国で会いに行くから大丈夫だよ」という声。
風邪で寝込んでいたときに、
「今日は特別」と言って、苺と見たことない形のスプーンを硝子の器で渡してくれたときの
あの気持ち。
そういう記憶の切れ端が、夕方電車に乗っていると急にやってくる。
きっと母には記憶されてないだろう、私だけの記憶。
考えてみると、もうすぐ母が私を産んだ年齢になるのだった。
今度母に話してみようかな。
他のどのお母さんたちより背が高く、料理が上手く、サバサバしていた母。
きっと、「なにそれ~そんなことあったっけ?」と言うに違いないけど。
===
↑の動画たちとはちょいと系統がちがうかもしれないけど。
「森山愛子,赤とんぼ」
http://www.youtube.com/watch?v=i8FbONpEroQ
愛子ブッシー(懐)とシンディーの打たれてる様子がツボで見てしまう。
あがたじゃないよ。
強い光線が束になって深緑を、首筋を、アスファルトを刺す現実から逃れるためか、
自然と頭の中で涼しさを想像する。
目を閉じて涼しいというイメージを膨らませていくと、
かすかな風に揺れる葉や、遠くで聞こえる鳥の声、どこかで流れる水の音など、
少し光量が低く広々とした空間に自分を閉じ込めていく。
心地よい静けさ暗さが眠りへと誘う。
そんなことをしていると、現実には酷暑のさなかに立っていても、
気持ちが落ち着いてイライラしなくなってくる。
夏も楽しみたいけれど、自分が南国気質じゃないからか、はたまた今年の夏がきつすぎるのか、コンクリートの上で焼き魚になった気分になるのです…
育った場所は山だったけれど、小高い山を木々が覆っていて、どちらかというと林に近い感じだったので、森にはそれほど馴染みがない。
私の森はイメージの森で、おぼろげなビジュアルで構成されているからか、
不確かで変わりやすい。
目を開けると、もうさっき見ていたはずの面影がなくなっていたりするような。
木陰からきらきらと漏れていた光が消えて、いつのまにか足元に霧が立ち込めていたり。
そこではじめて胸に差す不安が、その場所に留まることを許さない。
「ここを出なければいけない」
霧に濡れる木の根をまたぎ、枝を持ち上げて、もと来た道を探し始める。
叫ぶような鳥の声が静寂を破って、ふと見上げると木々が黒く太いからだを揺らしている。
立ち止まってみても、振り返ってみても、もう何もわからない。
自分の声は、森のざわめきにかきけされて誰にも届かないだろう。
その時初めて気づく、
自分は森を訪れたわけじゃない、森も私を受け入れたわけじゃない。
私はただ迷い込んだだけなのだと。
…ってな感じで、電車を待つホームやバスの窓際の席でじりじり灼けながらイメージ遊びをしている、いろんな意味で危ないワタクシでございました。(ちゃんちゃん)
強い光線が束になって深緑を、首筋を、アスファルトを刺す現実から逃れるためか、
自然と頭の中で涼しさを想像する。
目を閉じて涼しいというイメージを膨らませていくと、
かすかな風に揺れる葉や、遠くで聞こえる鳥の声、どこかで流れる水の音など、
少し光量が低く広々とした空間に自分を閉じ込めていく。
心地よい静けさ暗さが眠りへと誘う。
そんなことをしていると、現実には酷暑のさなかに立っていても、
気持ちが落ち着いてイライラしなくなってくる。
夏も楽しみたいけれど、自分が南国気質じゃないからか、はたまた今年の夏がきつすぎるのか、コンクリートの上で焼き魚になった気分になるのです…
育った場所は山だったけれど、小高い山を木々が覆っていて、どちらかというと林に近い感じだったので、森にはそれほど馴染みがない。
私の森はイメージの森で、おぼろげなビジュアルで構成されているからか、
不確かで変わりやすい。
目を開けると、もうさっき見ていたはずの面影がなくなっていたりするような。
木陰からきらきらと漏れていた光が消えて、いつのまにか足元に霧が立ち込めていたり。
そこではじめて胸に差す不安が、その場所に留まることを許さない。
「ここを出なければいけない」
霧に濡れる木の根をまたぎ、枝を持ち上げて、もと来た道を探し始める。
叫ぶような鳥の声が静寂を破って、ふと見上げると木々が黒く太いからだを揺らしている。
立ち止まってみても、振り返ってみても、もう何もわからない。
自分の声は、森のざわめきにかきけされて誰にも届かないだろう。
その時初めて気づく、
自分は森を訪れたわけじゃない、森も私を受け入れたわけじゃない。
私はただ迷い込んだだけなのだと。
…ってな感じで、電車を待つホームやバスの窓際の席でじりじり灼けながらイメージ遊びをしている、いろんな意味で危ないワタクシでございました。(ちゃんちゃん)
6月に読んだ本を記録のために羅列だけ。
夜の橋/藤沢周平
今と変わらず、ままならない日常を生きる江戸時代の人々。
クリストファー男娼窟/草間彌生
幻想と現実の麻薬的交歓。
怪物はささやく/パトリック・ネス
絵つき小説。主人公の男の子の気持ちと共鳴して喫茶店でぽろぽろ泣いてしまった。
現実入門/穂村弘
現実が苦手な歌人と美人編集者の現実体験。現実と己の意識の狭間でうろたえる柔らかい文体。
空飛ぶ馬/北村薫
北村薫って女性じゃなかったんかい!
私が殺した少女/原りょう
ハードボイルドすぎてちょっと私には大人すぎたわ。
火車/宮部みゆき
現実より現実的。結末が怖いのに、登場人物たちが向かう道筋に引っ張られてとまらない。
そしてそのスピード感を(ある意味)裏切らない結末。
…節操ナッシング…。
今月はもうちょっと時間がありそうなので、
20冊くらい読めればいいなぁ。
夜の橋/藤沢周平
今と変わらず、ままならない日常を生きる江戸時代の人々。
クリストファー男娼窟/草間彌生
幻想と現実の麻薬的交歓。
怪物はささやく/パトリック・ネス
絵つき小説。主人公の男の子の気持ちと共鳴して喫茶店でぽろぽろ泣いてしまった。
現実入門/穂村弘
現実が苦手な歌人と美人編集者の現実体験。現実と己の意識の狭間でうろたえる柔らかい文体。
空飛ぶ馬/北村薫
北村薫って女性じゃなかったんかい!
私が殺した少女/原りょう
ハードボイルドすぎてちょっと私には大人すぎたわ。
火車/宮部みゆき
現実より現実的。結末が怖いのに、登場人物たちが向かう道筋に引っ張られてとまらない。
そしてそのスピード感を(ある意味)裏切らない結末。
…節操ナッシング…。
今月はもうちょっと時間がありそうなので、
20冊くらい読めればいいなぁ。
ぐっと何か一つ考えなきゃいけないことができると、
全く関係の無いことに思いを巡らせる時間が増える。
脳味噌が逃避行。
頭の中でさんざん言葉を巡らせて、口の中でこねくり回して、
そのくせ言葉になるものは数えるほどしかなかったりする。
頭の中でも、きちんと「言葉」で考えている部分と、
言葉にならない有象無象を走らせている部分がある気がする。
その境界線がすごく曖昧なんだろうけど、
ふと、言葉にならない方から急に、自分の覚えがない言葉が飛び出してくることがある。
昨日は「トビリシ」。←googleで調べたらグルジアの首都でした…
こういう単語がいきなり頭の中に浮かぶのです。
多分どこかでみたことあるんだろうな…謎すぎる。
こういうコントロールが効かない部分を放置してきた自覚があるので、
もちろん助けられたこともあるけれど、嫌だと思うこともあった。
今まではそれをどうにか直すことばっかり考えていたけれど、
最近は意識的に自分が摂る言葉を選ぶことでどうにかできるんじゃないかと思い始めた。
「言葉」の世界に引き寄せる方向の努力をいっちょやってみようかと。
本もそうだし、テレビや人の話も。自分が声にだす言葉も。
全く関係の無いことに思いを巡らせる時間が増える。
脳味噌が逃避行。
頭の中でさんざん言葉を巡らせて、口の中でこねくり回して、
そのくせ言葉になるものは数えるほどしかなかったりする。
頭の中でも、きちんと「言葉」で考えている部分と、
言葉にならない有象無象を走らせている部分がある気がする。
その境界線がすごく曖昧なんだろうけど、
ふと、言葉にならない方から急に、自分の覚えがない言葉が飛び出してくることがある。
昨日は「トビリシ」。←googleで調べたらグルジアの首都でした…
こういう単語がいきなり頭の中に浮かぶのです。
多分どこかでみたことあるんだろうな…謎すぎる。
こういうコントロールが効かない部分を放置してきた自覚があるので、
もちろん助けられたこともあるけれど、嫌だと思うこともあった。
今まではそれをどうにか直すことばっかり考えていたけれど、
最近は意識的に自分が摂る言葉を選ぶことでどうにかできるんじゃないかと思い始めた。
「言葉」の世界に引き寄せる方向の努力をいっちょやってみようかと。
本もそうだし、テレビや人の話も。自分が声にだす言葉も。
ちょいと一段落したもんで、ちょっとずつ書けたらいいなぁ・・・
好きなものも、気になるものもどんどん増やしたい。
それを受けいれられる自分の感受性も大事にしたい。
うーん・・・暑い!
好きなものも、気になるものもどんどん増やしたい。
それを受けいれられる自分の感受性も大事にしたい。
うーん・・・暑い!
フランシス・ベーコン展へ。
2013年3月13日 memo コメント (2)控えめな風を陽光が温めていた昨日、
HTさまと再びお会いして
東京国立近代美術館「フランシス・ベーコン展」へと。
展示を観る前は、
彼の作品はただただ、嗜虐的欲求を発散し、戸惑うものに投げつけるのを楽しむような暴力性の塊だと思っていた。
そして観た後の感想は、「分かったようで分からない」ということ。
面白かったのは、確かに暴力性や恐怖を感じさせる表現ではあるものの、彼の理性・思考を通って描き出されているということ。
それは、丁寧に塗られた背景や画面を構成する直線・曲線の確かさにも見て取れる。
それから、恐怖や痛みは彼にとって瞬間的な現象ではなく、おそらく永遠であり、最も確かで普遍的なものとしてあったんじゃないかということ。
ベーコンの作品に散見される、「絵の中の檻、その中で叫ぶ人」というモチーフでは、人はスーツを着て、スキンヘッドで特徴のない顔、口は大きく空けているが歯の後ろは黒々として描かれている。三幅対では顔のパーツは拭い取られ、あるいは顔は男性で首から下は女性という形で描かれている。
個別具体的な「誰か」ではなく、「誰でもある・誰でもない誰か」として。
絵の中の時間も、まるで空気など存在しないかのように、人物も呼吸など知らないように静止している。
永遠に叫び止むことがない人物。
「金色の額縁にガラスをはめ込むこと」というベーコンの指定する展示方法を通してみると、手を伸ばすと届くほどの、けれどガラス一枚隔てた距離で行われている「実験」を観ているような気分になる。
ある人物の実験過程を見学しているというか・・・
おそらくベーコンにとって、見る人の解読など邪魔なものだったのだろうと思う。
こじつけも許さないほどの混乱を受け止める覚悟こそ、ベーコンの最も求めたものだったのかもしれない。
(絵の脇にある解説も、「きっと~かもしれない」)なんて語調だし。
ぐだぐた書いて、一日経ったのにまだ消化できない。
結局あの作品群は、ベーコンの何だったんだろう?
一方で私の頭の中には、絵の一つ一つのパーツ(首や裸像、叫ぶ口、椅子、溶ける影など)が寄り集まって、奇妙にモダンなインテリアに囲まれた怪物のようなイメージができつつある。それがベーコンにとっての、描くべき人間像なのかもしれないけれど。
- - - - - - - -
こんぐらがった後は神保町へ。
まず腹ごしらえにカレー屋「エチオピア」へ。
辛さが0~70倍まで選べるということで、もちろん・・・・0倍で。ヘタレなもんでw
いただいたチキンカレーはサラサラして具はたっぷり!おいしい!
すごく食べ応えがあってしかもジャガバタのおかわりまで!!
私は朝ごはん食べないで向かったので、HTさまが残してたご飯を奪ってしまい・・・
一人前でもかなりのボリュームなのですが、勢いつけすぎてやっぱりお腹いっぱいに・・・げふ。
(そして二人してカレーの写真は撮れなかったというw)
ベルトを押し返す腹を抱えて神保町を少し散策。
私がイメージしてた神保町はもっと大正建築風だったのですが、かなりビル群が多かった。
それでも児童書専門、中国書籍、洋書etc長いことうまく棲み分けしてやってきたんだなぁという印象は崩れず、勝手にホッとしていた。店先のワゴンセールも先々で賑わっていたし。
特に和本!「北斎漫画」とか欲しいw(´へ`)w
カレーはまだまだ消化できていなかったけれど、HTさまとはここでお別れ。
私がのたくら話すのをちゃんと聞いてくださって・・・涙
木村さんの話をした時間はギュッと凝縮しても5分程度しか話さなかったと思われますが、
とってもとっても刺激的で楽しく、満腹なひと時でした。
いつもありがとうございます!今度こそ乗り過ごさないように頑張ります☆
HTさまと再びお会いして
東京国立近代美術館「フランシス・ベーコン展」へと。
展示を観る前は、
彼の作品はただただ、嗜虐的欲求を発散し、戸惑うものに投げつけるのを楽しむような暴力性の塊だと思っていた。
そして観た後の感想は、「分かったようで分からない」ということ。
面白かったのは、確かに暴力性や恐怖を感じさせる表現ではあるものの、彼の理性・思考を通って描き出されているということ。
それは、丁寧に塗られた背景や画面を構成する直線・曲線の確かさにも見て取れる。
それから、恐怖や痛みは彼にとって瞬間的な現象ではなく、おそらく永遠であり、最も確かで普遍的なものとしてあったんじゃないかということ。
ベーコンの作品に散見される、「絵の中の檻、その中で叫ぶ人」というモチーフでは、人はスーツを着て、スキンヘッドで特徴のない顔、口は大きく空けているが歯の後ろは黒々として描かれている。三幅対では顔のパーツは拭い取られ、あるいは顔は男性で首から下は女性という形で描かれている。
個別具体的な「誰か」ではなく、「誰でもある・誰でもない誰か」として。
絵の中の時間も、まるで空気など存在しないかのように、人物も呼吸など知らないように静止している。
永遠に叫び止むことがない人物。
「金色の額縁にガラスをはめ込むこと」というベーコンの指定する展示方法を通してみると、手を伸ばすと届くほどの、けれどガラス一枚隔てた距離で行われている「実験」を観ているような気分になる。
ある人物の実験過程を見学しているというか・・・
おそらくベーコンにとって、見る人の解読など邪魔なものだったのだろうと思う。
こじつけも許さないほどの混乱を受け止める覚悟こそ、ベーコンの最も求めたものだったのかもしれない。
(絵の脇にある解説も、「きっと~かもしれない」)なんて語調だし。
ぐだぐた書いて、一日経ったのにまだ消化できない。
結局あの作品群は、ベーコンの何だったんだろう?
一方で私の頭の中には、絵の一つ一つのパーツ(首や裸像、叫ぶ口、椅子、溶ける影など)が寄り集まって、奇妙にモダンなインテリアに囲まれた怪物のようなイメージができつつある。それがベーコンにとっての、描くべき人間像なのかもしれないけれど。
- - - - - - - -
こんぐらがった後は神保町へ。
まず腹ごしらえにカレー屋「エチオピア」へ。
辛さが0~70倍まで選べるということで、もちろん・・・・0倍で。ヘタレなもんでw
いただいたチキンカレーはサラサラして具はたっぷり!おいしい!
すごく食べ応えがあってしかもジャガバタのおかわりまで!!
私は朝ごはん食べないで向かったので、HTさまが残してたご飯を奪ってしまい・・・
一人前でもかなりのボリュームなのですが、勢いつけすぎてやっぱりお腹いっぱいに・・・げふ。
(そして二人してカレーの写真は撮れなかったというw)
ベルトを押し返す腹を抱えて神保町を少し散策。
私がイメージしてた神保町はもっと大正建築風だったのですが、かなりビル群が多かった。
それでも児童書専門、中国書籍、洋書etc長いことうまく棲み分けしてやってきたんだなぁという印象は崩れず、勝手にホッとしていた。店先のワゴンセールも先々で賑わっていたし。
特に和本!「北斎漫画」とか欲しいw(´へ`)w
カレーはまだまだ消化できていなかったけれど、HTさまとはここでお別れ。
私がのたくら話すのをちゃんと聞いてくださって・・・涙
木村さんの話をした時間はギュッと凝縮しても5分程度しか話さなかったと思われますが、
とってもとっても刺激的で楽しく、満腹なひと時でした。
いつもありがとうございます!今度こそ乗り過ごさないように頑張ります☆
雪が降ってもおかしくないほど冷え込んだ昨日、
HTさまと久しぶりに遊びに行きました。
待ち合わせの原宿に少し早めに着くようにしたのに、
ふと表示板見たら「もうすぐ池袋」と文字が・・・!
15分ほどお待たせしてラフォーレに入ったら、背後から「遅いっ♯w」の声が…
HTさまだーー(´▽`*)←反省せい
そして、二人でいそいそと6階で開催中の「デヴィット・リンチ展」へ。
彼の写真・映像・ドローイングなどの作品群は、
そのどれもが彼の世界独特の暗闇を宿している。
そして嗜虐性と諧謔性。
見る人は息つまる暗闇の渦に巻き込まれながら、それでもその奥に子供の悪戯に似た無邪気さを感じる。
もちろんその黒い稚気を放縦するだけではなくて、作品としての演出が(緻密すぎるほど)緻密にされているのだけど。
まるで性質のわるい子供のいたずらだ。
だけどそれは誰もが経験してきた時期でもある。
彼は自分の世界でその暗闇を育ててきたのだ、その暗闇にとらわれるのではなく、あくまでもその主人として。
それから音。
爆発的な音で脅かすだけではなく、静寂の怖さも手に入れている。
人が急に黙り込む緊張や、起きるはずのことが起きない不安も。
特に映像は音と音楽が本当に近いところにいて、その交錯がまったく違和感なく並存している(彼の世界では)。
子供の悪戯とアーテイストの精神。
その根拠など求めようがないふたつが融解して、彼の世界はとぐろを巻く黒い渦を飼っている。
見る人は辛うじて「他者」だけど、常人ではあの世界に閉じ込められたら半日で気が狂ってしまいそうだ・・・
HTさまと久しぶりに遊びに行きました。
待ち合わせの原宿に少し早めに着くようにしたのに、
ふと表示板見たら「もうすぐ池袋」と文字が・・・!
15分ほどお待たせしてラフォーレに入ったら、背後から「遅いっ♯w」の声が…
HTさまだーー(´▽`*)←反省せい
そして、二人でいそいそと6階で開催中の「デヴィット・リンチ展」へ。
彼の写真・映像・ドローイングなどの作品群は、
そのどれもが彼の世界独特の暗闇を宿している。
そして嗜虐性と諧謔性。
見る人は息つまる暗闇の渦に巻き込まれながら、それでもその奥に子供の悪戯に似た無邪気さを感じる。
もちろんその黒い稚気を放縦するだけではなくて、作品としての演出が(緻密すぎるほど)緻密にされているのだけど。
まるで性質のわるい子供のいたずらだ。
だけどそれは誰もが経験してきた時期でもある。
彼は自分の世界でその暗闇を育ててきたのだ、その暗闇にとらわれるのではなく、あくまでもその主人として。
それから音。
爆発的な音で脅かすだけではなく、静寂の怖さも手に入れている。
人が急に黙り込む緊張や、起きるはずのことが起きない不安も。
特に映像は音と音楽が本当に近いところにいて、その交錯がまったく違和感なく並存している(彼の世界では)。
子供の悪戯とアーテイストの精神。
その根拠など求めようがないふたつが融解して、彼の世界はとぐろを巻く黒い渦を飼っている。
見る人は辛うじて「他者」だけど、常人ではあの世界に閉じ込められたら半日で気が狂ってしまいそうだ・・・
「MY WEEK WITH MARILYN」(コリン・クラーク著)を読んでいて、
どうしても観たくなってしまったので、ツタヤで借りる。
上の本は、著者が若かりし頃「王子と踊り子」で第三監督助手を務め、
マリリン・モンローとかりそめの交流をもった一週間の話。
(著者も自覚しているように、スーパースターの私生活の"息抜き"に付き合わされた初心な青年、という関係といったらよさそうではある)
本の中では、
マリリンが演技指導や夫、プロデューサー、それに相手役ローレンス・オリヴィエなど、
周囲のプレッシャーや偏見のまなざしに耐え切れずスタジオに現れなかったり、
薬を飲みすぎては次の日の撮影にも出てこられない、
そんなアメリカのセックス・シンボルに振り回されてうんざりする現場の雰囲気がよく伝わってくる。(著者やジャック・カーディフなど、全面的な"味方"もいるけれど)
でも、同時に誰もが、彼女の言いようのない、でも抗いがたい魅力を確信していた。
その自分を最後まで受け止め切れず、結局周りを振り回してしまうマリリン。
救いがたく魅力的な、正真正銘のスター、その一等星であり続けている。
私がモンローの出演映画(DVDだけど)を観たのは、「お熱いのがお好き」とこれだけ。
観た作品がそうだったからこそ、かもしれないけど、
コメディエンヌとしての彼女はとても光り輝いている。
周りの人間を戸惑わせながら、目を離さずにはいられない存在。
豊満であると同時に、幼児のような印象を持つ。
その行ったり来たりの揺り戻しに、ひきつけられるのかもしれない。
その波を抱えている本人は「孤独」にさいなまれ続けたわけだけど・・・・
少なくとも、この映画の主人公エルシーを演じる彼女は、
天真爛漫で、人の心の機微を知り、愛の素敵さを全身に歌う女性であり、
その最中に、薬に溺れ相手役と信頼関係が築けず、アクションの前に演技指導に自分を
褒め称えてもらえないと立ち位置にもいられない女性だったなんて微塵も感じさせない。
どことなくアイロニーと戦争の影を滲ませる映画の中で、
彼女のきらきらした存在があたたかな余韻になる。
「自分らしくいろ」なんて、一番難しいことだと思う。
言われれば言われるほど、何かに囚われたような息苦しさがつきまとう。
「自分でいる」ということは、ある意味「周りを認める(否定しない)」ことと同じくらい
簡単に吐ける言葉で、なおかつ至難の業なのかもしれない。
しかし、このエルシーがもともとオリヴィエの妻だったヴィヴィアン・リーのための役、
というのが・・・まったく想像できない(笑)
そして、やっぱりローレンス・オリヴィエはほんのり江守徹(笑)
東京に、みにいく。③←おまけ?
2012年9月23日 memo コメント (3)
外はもう夜。
喫茶店で少し時間をつぶして、東京駅へ。
東京駅舎が復元された記念に、駅舎にCG映像が投影されるイベントがあるということで、
お決まりのぶらり下車で東京駅に。
しっかし、激混み!待ってる人たちがガードレールに上るわ歩道で立ち止まるわ、
もうめちゃくちゃ・・・
揉まれてる間にベストポジションに流れ着いたのだが、
その間ずーっと後ろのおばーちゃんに「あんた、邪魔なんだけど♯」と五分おきに怒鳴られる。
(そんなこと言ったって、私がしゃがんだところでどうにもならないだろーがっ!目の前に子供肩車したおっさんがわんさかいるんだから!)
と開演前にすでに帰りたくなる・・・
んで、開演。
駅舎の窓に人影が・・・窓ごと流れていって列車の発着風景へ・・・そして路線図、東京の駅看板、花、時計・・・etc。
(写真1・2)
海外の何かのファッション・イベントの映像で見たことあると思ったんだけどな~
何だったっけな~・・・ ←とりあたま
思わず拍手や歓声があがる。
15分弱、光と影のイリュージョンを堪能しました(人の頭の隙間から)
しかし、20:00、20:20、20:40と三回予定されていたイベントは、
交通上の混乱で一回で中止になりましたとさ ┐(´ー`)┌
主催、しっかりしろい!
・・・そんなわけで、歩いて疲れて、でも満足感だけがふくらむ良い一日でした!
喫茶店で少し時間をつぶして、東京駅へ。
東京駅舎が復元された記念に、駅舎にCG映像が投影されるイベントがあるということで、
お決まりのぶらり下車で東京駅に。
しっかし、激混み!待ってる人たちがガードレールに上るわ歩道で立ち止まるわ、
もうめちゃくちゃ・・・
揉まれてる間にベストポジションに流れ着いたのだが、
その間ずーっと後ろのおばーちゃんに「あんた、邪魔なんだけど♯」と五分おきに怒鳴られる。
(そんなこと言ったって、私がしゃがんだところでどうにもならないだろーがっ!目の前に子供肩車したおっさんがわんさかいるんだから!)
と開演前にすでに帰りたくなる・・・
んで、開演。
駅舎の窓に人影が・・・窓ごと流れていって列車の発着風景へ・・・そして路線図、東京の駅看板、花、時計・・・etc。
(写真1・2)
海外の何かのファッション・イベントの映像で見たことあると思ったんだけどな~
何だったっけな~・・・ ←とりあたま
思わず拍手や歓声があがる。
15分弱、光と影のイリュージョンを堪能しました(人の頭の隙間から)
しかし、20:00、20:20、20:40と三回予定されていたイベントは、
交通上の混乱で一回で中止になりましたとさ ┐(´ー`)┌
主催、しっかりしろい!
・・・そんなわけで、歩いて疲れて、でも満足感だけがふくらむ良い一日でした!
東京に、みにいく。②
2012年9月23日 memo
さて、外へでると薄曇の空からオレンジの光が差し込んでいる。
早く次の展覧会へ向かわなければ! (←ザ・無計画)
次にやってきたのは、御徒町駅から少し歩いたとこにある 3331 Arts Chiyoda。
地下一階で23日まで開かれている
「PHOTOHOKU」へ。 (http://photohoku.org/)
日本在住のフォトグラファーが、東日本大震災の被災地で人々のポラロイト写真を撮り、
アルバムにして渡していくというプロジェクトの展覧会です。
私が惹かれたのは、前掲Time Out Tokyo での紹介ページの写真。
外国人男性のカメラマンに向かって、男の子が元気よく、100%の笑顔を向けている。
スタッフの方のお話を伺うと、
参加するフォトグラファーの中には専業・本業ではない人も少なからずいて、
そして、皆行く度に、被災地の人々のパワーに元気をもらって帰るのだそう。
「コミュニティ」に対する思いの強さから、在日外国人のフォトグラファーも多数参加する、と。
その話どおり、こじんまりしたスペースの壁3面いっぱいに展示された写真たちは、
どれも映っている人の声(特に笑い声)が聞こえてきそうなものばかり。
そして、そのいくつかには、子供たちにポラロイドカメラを向けられている外国人の姿も。
なんだろうな~・・・心の中にすっと入る、その塩梅が絶妙なんだと思う。
私の感覚では、見ず知らずの人にカメラを向けられたら表情がこわばってしまうし、
まったく知らない人にカメラを向けた瞬間に笑顔を引き出す自信もない。
たぶん、心がひらけている人、ってことなんだろう。
カメラを向けたもの・人の数だけ、自分の「心」で、相手の心ごと映し出してきたのだから。
と、思うのは、私もスタッフさんに撮ってもらったから(笑)
スペースに、デン!と置かれたポラロイド
(写真のやつ→レンズはどこかの軍用機向けに開発されたものらしい・・・)
が珍しかったので色々質問攻めしていたら
「そんなに興味あったらぜひ撮ってみてくださいよ~滅多にないですよ!」
と言ってもらったので、そんじゃあとノッてしまった;
今手元にあるのは、ポラロイドならではの、
それでいてトイポラでは絶対できないボケ度で映っている私の写真。(案の定髪ボサボサ)
すごく暖かく、元気な気持ちになった展覧会でした。
もし行けることがあったら、ぜひ行ってみてくださいませ。
<Thanks , Mr.Brian !>
早く次の展覧会へ向かわなければ! (←ザ・無計画)
次にやってきたのは、御徒町駅から少し歩いたとこにある 3331 Arts Chiyoda。
地下一階で23日まで開かれている
「PHOTOHOKU」へ。 (http://photohoku.org/)
日本在住のフォトグラファーが、東日本大震災の被災地で人々のポラロイト写真を撮り、
アルバムにして渡していくというプロジェクトの展覧会です。
私が惹かれたのは、前掲Time Out Tokyo での紹介ページの写真。
外国人男性のカメラマンに向かって、男の子が元気よく、100%の笑顔を向けている。
スタッフの方のお話を伺うと、
参加するフォトグラファーの中には専業・本業ではない人も少なからずいて、
そして、皆行く度に、被災地の人々のパワーに元気をもらって帰るのだそう。
「コミュニティ」に対する思いの強さから、在日外国人のフォトグラファーも多数参加する、と。
その話どおり、こじんまりしたスペースの壁3面いっぱいに展示された写真たちは、
どれも映っている人の声(特に笑い声)が聞こえてきそうなものばかり。
そして、そのいくつかには、子供たちにポラロイドカメラを向けられている外国人の姿も。
なんだろうな~・・・心の中にすっと入る、その塩梅が絶妙なんだと思う。
私の感覚では、見ず知らずの人にカメラを向けられたら表情がこわばってしまうし、
まったく知らない人にカメラを向けた瞬間に笑顔を引き出す自信もない。
たぶん、心がひらけている人、ってことなんだろう。
カメラを向けたもの・人の数だけ、自分の「心」で、相手の心ごと映し出してきたのだから。
と、思うのは、私もスタッフさんに撮ってもらったから(笑)
スペースに、デン!と置かれたポラロイド
(写真のやつ→レンズはどこかの軍用機向けに開発されたものらしい・・・)
が珍しかったので色々質問攻めしていたら
「そんなに興味あったらぜひ撮ってみてくださいよ~滅多にないですよ!」
と言ってもらったので、そんじゃあとノッてしまった;
今手元にあるのは、ポラロイドならではの、
それでいてトイポラでは絶対できないボケ度で映っている私の写真。(案の定髪ボサボサ)
すごく暖かく、元気な気持ちになった展覧会でした。
もし行けることがあったら、ぜひ行ってみてくださいませ。
<Thanks , Mr.Brian !>
東京に、みにいく。①
2012年9月23日 memoアレコレのせいで週末の予定が丸々なくなってしまった・・・
(石原氏め!党政府めっ!)
だらだら過ごそうにも気持ちが収まらないので、
「Time Out Tokyo」 http://www.timeout.jp/ja/tokyo
で調べてめぼしいイベントをチェック!
雨が降りそうだったので、屋内のものにいくつか行くことに。
都内パスを買って、まずは
「THE TOKYO ART BOOK FAIR 2012」
@京都造形大学・東北芸術工科大学 外苑キャンパス
http://zinesmate.org/the-tokyo-art-book-fair
まず、受付でビールと焼き魚を販売しているという(笑)
くだけた空間に、こだわりを詰め込んだアート・ブックを販売している出展者がいっぱい。
外国の方も出展していて、英語が飛び交ってたり、そして彼らの手にはビールがあったりw
アート・ブックの内容は多岐にわたっていて、
ファッション、詩、旅、演劇、舞台芸術などなど、フォトブックになっていたり、
海外の絵本や写真集を紹介しているブースや、印刷系(活版印刷や紙)の出展も。
どの部屋も出展者と来場者のお話で盛り上がっていて、活気にあふれている。
「どうぞご自由に、あなたの求めるものを(or私の伝えたいものを)!」
フラットな関係で、かつ思いを共有する、そんな不思議な空間でした。
ちなみに、私は「アイロニー」という花屋 (http://www.illony.com/)
のオーナーさんが趣味が高じて作ってしまったという写真集を購入しました。
アレンジメントやブーケ、様々な姿をした「花」の美しさに吸い込まれるようにして
撮った写真130頁弱、その間に差し込まれているお客さんたちの写真。
「いっつも出展されてるんですか?」と聞くと、
「いえ、初めて。今回が”創刊号”なんです」と笑うスタッフさん。
作る思いや情熱が直に伝わってくる。
それ「だけ」で作っているわけではないのに、どうしてそう感じられるのだろう?
それから、その向かい側に出展していた
「禪 フォトギャラリー」 (http://www.zen-foto.jp/web/html/about.html)も、
日本・中国などアジア諸国の若手写真家の作品を紹介していてずっと見ていた。
特に劉錚氏の「驚夢」という作品は、
たとえて言うなら上田義彦氏のような静謐な鋭敏な質感で、
でも被写体は裸の少年、陰部をさらけ出した女性、皮膚病の中年男性、京劇の扮装をした裸の女性など、
あまりにも「ありのまま」なのでグロテスクにさえ映る生命の形。
この写真集も(1000円て!)買いたかったのだけど、そうなると帰れなくなるんで・・・
どうにかして手に入れよう。そうしよう・・・
(石原氏め!党政府めっ!)
だらだら過ごそうにも気持ちが収まらないので、
「Time Out Tokyo」 http://www.timeout.jp/ja/tokyo
で調べてめぼしいイベントをチェック!
雨が降りそうだったので、屋内のものにいくつか行くことに。
都内パスを買って、まずは
「THE TOKYO ART BOOK FAIR 2012」
@京都造形大学・東北芸術工科大学 外苑キャンパス
http://zinesmate.org/the-tokyo-art-book-fair
まず、受付でビールと焼き魚を販売しているという(笑)
くだけた空間に、こだわりを詰め込んだアート・ブックを販売している出展者がいっぱい。
外国の方も出展していて、英語が飛び交ってたり、そして彼らの手にはビールがあったりw
アート・ブックの内容は多岐にわたっていて、
ファッション、詩、旅、演劇、舞台芸術などなど、フォトブックになっていたり、
海外の絵本や写真集を紹介しているブースや、印刷系(活版印刷や紙)の出展も。
どの部屋も出展者と来場者のお話で盛り上がっていて、活気にあふれている。
「どうぞご自由に、あなたの求めるものを(or私の伝えたいものを)!」
フラットな関係で、かつ思いを共有する、そんな不思議な空間でした。
ちなみに、私は「アイロニー」という花屋 (http://www.illony.com/)
のオーナーさんが趣味が高じて作ってしまったという写真集を購入しました。
アレンジメントやブーケ、様々な姿をした「花」の美しさに吸い込まれるようにして
撮った写真130頁弱、その間に差し込まれているお客さんたちの写真。
「いっつも出展されてるんですか?」と聞くと、
「いえ、初めて。今回が”創刊号”なんです」と笑うスタッフさん。
作る思いや情熱が直に伝わってくる。
それ「だけ」で作っているわけではないのに、どうしてそう感じられるのだろう?
それから、その向かい側に出展していた
「禪 フォトギャラリー」 (http://www.zen-foto.jp/web/html/about.html)も、
日本・中国などアジア諸国の若手写真家の作品を紹介していてずっと見ていた。
特に劉錚氏の「驚夢」という作品は、
たとえて言うなら上田義彦氏のような静謐な鋭敏な質感で、
でも被写体は裸の少年、陰部をさらけ出した女性、皮膚病の中年男性、京劇の扮装をした裸の女性など、
あまりにも「ありのまま」なのでグロテスクにさえ映る生命の形。
この写真集も(1000円て!)買いたかったのだけど、そうなると帰れなくなるんで・・・
どうにかして手に入れよう。そうしよう・・・
「最強のふたり」と菊松屋
2012年9月15日 memo コメント (2)
昨日はHTさまと映画&ご飯というデートプラン♪
急遽の日程だったのですが、本当にありがとうございます!<私信
まず、「最強のふたり」を目指して映画館へ。
http://saikyo-2.gaga.ne.jp/
貧しい若者ドリスと首から下が不随となったフィリップ。
冒険を愛し、楽しいことが大好き、女はもっと好き。
住む世界がまったく違う二人の交流。
二人の冗談、特にドリスのは、
日本の場合には眉をひそめて黙らせようとするタチのものだったりする。
だけど、彼らにはそんな声は耳に入らないだろう。
家族、貧富、障害、生活の中にある自分ではどうにもできない現実を
重苦しく(腫れ物を扱うように)語るのではなく、
同じ目線で、軽口を叩きあいながら、彼らは車椅子を突っ走らせる。
すごく好きな映画。
フランスらしい、からっとしたドラマで、だからこそあんなに笑えたのだと思う。
そしてご飯処「菊松屋」へ。
http://www.kikumatsuya.com/
以前HTさまが紹介されてるのを見て「絶対行きてぇ(涎)」と思っていたのですが、
ようやく果たせました・・・・
内装や器に、ご主人のこだわりが詰まっていて、
しかもそれがとても心地いい。
二人でビールを飲みながら、本当においしい料理を食べて・・・
そして・・・あれ、何しゃべったけか?
鰹のたたき、鶏の鉄板焼き、白レバ、無性においしい白ご飯。
すごいピッチで飲んでくHTさまに少々慄きながら、わたくしも静かによっぱらう。
そしてまんまと本の入ったバッグを持ち忘れて、
お店の方に自転車でもってきてもらうというサザエさんレベルの失態をやらかしたのでした・・・
外に出てみれば街は薄闇の中ネオンがきらきらしている。
秋の夜風が頬をなでていく。
HTさまはいつもどおりシャキシャキ可愛らしいお方で、とても楽しい。
次はトレンチコートを羽織る前にお会いできるといいな♪
よろしくお願いいたしまする~!
(追記)
写真は上から鰹のたたき、鶏の鉄板焼き、白レバ。
見事に横になってるけど、カルーアミルクやっちゃったんで放置~(´w`)~
急遽の日程だったのですが、本当にありがとうございます!<私信
まず、「最強のふたり」を目指して映画館へ。
http://saikyo-2.gaga.ne.jp/
貧しい若者ドリスと首から下が不随となったフィリップ。
冒険を愛し、楽しいことが大好き、女はもっと好き。
住む世界がまったく違う二人の交流。
二人の冗談、特にドリスのは、
日本の場合には眉をひそめて黙らせようとするタチのものだったりする。
だけど、彼らにはそんな声は耳に入らないだろう。
家族、貧富、障害、生活の中にある自分ではどうにもできない現実を
重苦しく(腫れ物を扱うように)語るのではなく、
同じ目線で、軽口を叩きあいながら、彼らは車椅子を突っ走らせる。
すごく好きな映画。
フランスらしい、からっとしたドラマで、だからこそあんなに笑えたのだと思う。
そしてご飯処「菊松屋」へ。
http://www.kikumatsuya.com/
以前HTさまが紹介されてるのを見て「絶対行きてぇ(涎)」と思っていたのですが、
ようやく果たせました・・・・
内装や器に、ご主人のこだわりが詰まっていて、
しかもそれがとても心地いい。
二人でビールを飲みながら、本当においしい料理を食べて・・・
そして・・・あれ、何しゃべったけか?
鰹のたたき、鶏の鉄板焼き、白レバ、無性においしい白ご飯。
すごいピッチで飲んでくHTさまに少々慄きながら、わたくしも静かによっぱらう。
そしてまんまと本の入ったバッグを持ち忘れて、
お店の方に自転車でもってきてもらうというサザエさんレベルの失態をやらかしたのでした・・・
外に出てみれば街は薄闇の中ネオンがきらきらしている。
秋の夜風が頬をなでていく。
HTさまはいつもどおりシャキシャキ可愛らしいお方で、とても楽しい。
次はトレンチコートを羽織る前にお会いできるといいな♪
よろしくお願いいたしまする~!
(追記)
写真は上から鰹のたたき、鶏の鉄板焼き、白レバ。
見事に横になってるけど、カルーアミルクやっちゃったんで放置~(´w`)~
本日はHTさまと川崎で待ち合わせ。
目的はイタリアンと上田氏のギャラリーに行くため…
チネチッタ内にあるイタリアンは開店15分後でもういっぱい!
「イル・パッチォコーネ・ディ・キャンテラ・チッタデッラ」
http://www.quals.jp/il_pacioccone_di_chianti/index.html
妹と二人で来てから2か月に一遍くらい来ているのです。
ランチだったら1,050円で満腹になれる幸せなレストランです。
私はスパイスの効いたパスタ、HTさまはチーズのピザランチを頼んで二人で分けっこ。
お店はオーダーをイタリア語で伝えてたり窯やキッチンが見えるようになっていたり、
雰囲気も大好きで、尚且つ味もボリュームも好きではあったのですが、
どう考えても食通!であろうHTさまをお連れするのに大丈夫かな…と思っていたら
「おいしーい!」と言ってもらえたのでほっとしつつ、
ワインとサイダーを頂いて雨の川崎を後にしました。
そして、お目当てのギャラリー。
「Birds and Bones」
http://gallery916.com/exhibition/birdsandbones/
東京大学総合研究所博物館、山階鳥類研究所など、
博物研究として収蔵されていた剥製や動物の骨を撮影した作品の展覧会です。
黒をバックに置かれた極彩色の尾羽の先の一本まで余すところなく浮かび上がってくる。
それらは確かに息絶えて長く、固く目を閉じて動くことはない「死んだもの」だとわかる。
けれど上田氏はそれらを死の個体と見ていない気がする。
まるでその中に眠っていた生が上田氏のシャッター音に反応したように、
かすかな生を感じることができる。
剣の切先が光りを震わせるくらいの、ほんのわずかな動き。
上田氏はその瞬間を視ることができる人なのだと思う。
私は上田氏のレンズを通すことで、
止まって見えたものが実は胸の奥で呼吸をしているとわかったときと同じに、
タグを付けられた鳥たちにも、骨格標本にも生をみつけることができる。
一番印象に残ったのは卵の写真。
灰色の表面に黒の点が散っている卵は、底面に向けて影が差している。
その様子は石のようでもあり、ガスに包まれた天体のようでもある…
上田氏はレンズに収めることで美しさから剥製にされた動物と関わりを持った。
私はその「共作」を目の当たりにした。
上田氏の写真を目の前にすると自然に息をひそめてしまうこともまた、
その瞬間を経験したという意味では彼らと彼と繋がったといえるのかもしれない。
目的はイタリアンと上田氏のギャラリーに行くため…
チネチッタ内にあるイタリアンは開店15分後でもういっぱい!
「イル・パッチォコーネ・ディ・キャンテラ・チッタデッラ」
http://www.quals.jp/il_pacioccone_di_chianti/index.html
妹と二人で来てから2か月に一遍くらい来ているのです。
ランチだったら1,050円で満腹になれる幸せなレストランです。
私はスパイスの効いたパスタ、HTさまはチーズのピザランチを頼んで二人で分けっこ。
お店はオーダーをイタリア語で伝えてたり窯やキッチンが見えるようになっていたり、
雰囲気も大好きで、尚且つ味もボリュームも好きではあったのですが、
どう考えても食通!であろうHTさまをお連れするのに大丈夫かな…と思っていたら
「おいしーい!」と言ってもらえたのでほっとしつつ、
ワインとサイダーを頂いて雨の川崎を後にしました。
そして、お目当てのギャラリー。
「Birds and Bones」
http://gallery916.com/exhibition/birdsandbones/
東京大学総合研究所博物館、山階鳥類研究所など、
博物研究として収蔵されていた剥製や動物の骨を撮影した作品の展覧会です。
黒をバックに置かれた極彩色の尾羽の先の一本まで余すところなく浮かび上がってくる。
それらは確かに息絶えて長く、固く目を閉じて動くことはない「死んだもの」だとわかる。
けれど上田氏はそれらを死の個体と見ていない気がする。
まるでその中に眠っていた生が上田氏のシャッター音に反応したように、
かすかな生を感じることができる。
剣の切先が光りを震わせるくらいの、ほんのわずかな動き。
上田氏はその瞬間を視ることができる人なのだと思う。
私は上田氏のレンズを通すことで、
止まって見えたものが実は胸の奥で呼吸をしているとわかったときと同じに、
タグを付けられた鳥たちにも、骨格標本にも生をみつけることができる。
一番印象に残ったのは卵の写真。
灰色の表面に黒の点が散っている卵は、底面に向けて影が差している。
その様子は石のようでもあり、ガスに包まれた天体のようでもある…
上田氏はレンズに収めることで美しさから剥製にされた動物と関わりを持った。
私はその「共作」を目の当たりにした。
上田氏の写真を目の前にすると自然に息をひそめてしまうこともまた、
その瞬間を経験したという意味では彼らと彼と繋がったといえるのかもしれない。
(大分前になってしまったけれど、自分の気付に書いておく!)
春も盛りの4月上旬平日、HTさまとお出かけ。
大きな風に揺れる桜の樹を横目にまず向かったのは上田義彦氏の写真展「Materia」。
http://gallery916.com/exhibition/materia/
硬く白い空間にかけられた大判の写真群は、屋久島の光を浴びて影を織りなす森の肖像でした。
たっぷりした間隔で配置された写真は、
ちょうど見る人の腰のあたりに根を走らせていて、
上田氏が森の中を高揚しながら分け入っていった、
その足下に敷き詰められた枯葉の感触や、鳥のさえずりを追体験する感覚になる。
そして一歩後ずされば一面の白い壁、隣の工事現場の音、
そんなものもすべて森の中で聞いているような不思議な感じ。
同じ森の写真でも、「QUINAULT」は森全体にピントを張り巡らせた、
行き詰まる森の生死の姿を感じたのに、
(もちろん、影のなかにも深く色が滲む上田氏らしいテイストはあるのだけれど、)
この写真展で一番感じたのは、上田氏と森の共鳴。
撮影者の息遣いと森の呼吸が写真の中に封じられて、
樹々を揺らす風になっているようで…
本当に御馳走様な空間でした。
そして、そのあとは旧芝公園へ。
お昼時だったので、OLさんや会社員、子供連れがいっぱい。
裸足で筑地を登る子供たちの嬌声も、桜の花びらにこぼれる陽気も、
すべてが剣呑とした不思議な空気に包まれていた。
私たちもご他聞にもれずベンチに座ってまったりタイム。
どれくらいまったりだったかというと、鳩ぽっぽを眺めながら
「…鳩とかスズメとか、狩猟民族は野鳥食うけどうまいんかね…(意訳)」
な話をしていたという…
それからそれから、
HTさまに連れられて、エスパス ルイ・ヴィトン「Cosmic Travelers」へ。
http://espacelouisvuittontokyo.com/ja/
(しかしそれにしても太っ腹な装丁のパンフレット?であった…)
そこでなんと!佐藤充氏ご本人が制作中の現場に立ち会うことができました。
壁にはすでに来訪された際に書かれた鉛筆描きが縦横無尽に走っていたり、
モデルにされていた画廊のオーナーの絵が何パターンも描かれていたり…
一番印象的だったのは、
制作に没頭していた兄ちゃんみたいな佐藤氏にモデルさんが「動いていい?」といった後の
「ダメです。」
という絶対零度の響きと、
紙を精緻に切り抜いて切り抜いて作った塩保朋子さんの作品。
佐藤氏の作品はどれも偏執的に隙間を満たし、際限なく枝を広げる精神と肉体の産物(最中の作品は肉林状態であった…)であり、
塩保女史のその作品は、昇龍のような火焔のような、
はたまた胃液の中を生きる細菌のようなうねる「生命」そのもの。
自分の中にある「何か」に突き動かされて生み出されるモノ。
私はその得体の知れなさや、逆に明るみに晒す蛮勇に、そしてそれを生み出すエネルギーに圧倒されることを
たまらなく望んでいるのだと、表参道のカフェでHTさまと語りあいながらつらつらおもっていた昼下がり。
お別れした電車の中で、日頃の疲れとはまた別の、浄福感みたいなもので満たされた、本当にお腹いっぱいな一日でした。
春も盛りの4月上旬平日、HTさまとお出かけ。
大きな風に揺れる桜の樹を横目にまず向かったのは上田義彦氏の写真展「Materia」。
http://gallery916.com/exhibition/materia/
硬く白い空間にかけられた大判の写真群は、屋久島の光を浴びて影を織りなす森の肖像でした。
たっぷりした間隔で配置された写真は、
ちょうど見る人の腰のあたりに根を走らせていて、
上田氏が森の中を高揚しながら分け入っていった、
その足下に敷き詰められた枯葉の感触や、鳥のさえずりを追体験する感覚になる。
そして一歩後ずされば一面の白い壁、隣の工事現場の音、
そんなものもすべて森の中で聞いているような不思議な感じ。
同じ森の写真でも、「QUINAULT」は森全体にピントを張り巡らせた、
行き詰まる森の生死の姿を感じたのに、
(もちろん、影のなかにも深く色が滲む上田氏らしいテイストはあるのだけれど、)
この写真展で一番感じたのは、上田氏と森の共鳴。
撮影者の息遣いと森の呼吸が写真の中に封じられて、
樹々を揺らす風になっているようで…
本当に御馳走様な空間でした。
そして、そのあとは旧芝公園へ。
お昼時だったので、OLさんや会社員、子供連れがいっぱい。
裸足で筑地を登る子供たちの嬌声も、桜の花びらにこぼれる陽気も、
すべてが剣呑とした不思議な空気に包まれていた。
私たちもご他聞にもれずベンチに座ってまったりタイム。
どれくらいまったりだったかというと、鳩ぽっぽを眺めながら
「…鳩とかスズメとか、狩猟民族は野鳥食うけどうまいんかね…(意訳)」
な話をしていたという…
それからそれから、
HTさまに連れられて、エスパス ルイ・ヴィトン「Cosmic Travelers」へ。
http://espacelouisvuittontokyo.com/ja/
(しかしそれにしても太っ腹な装丁のパンフレット?であった…)
そこでなんと!佐藤充氏ご本人が制作中の現場に立ち会うことができました。
壁にはすでに来訪された際に書かれた鉛筆描きが縦横無尽に走っていたり、
モデルにされていた画廊のオーナーの絵が何パターンも描かれていたり…
一番印象的だったのは、
制作に没頭していた兄ちゃんみたいな佐藤氏にモデルさんが「動いていい?」といった後の
「ダメです。」
という絶対零度の響きと、
紙を精緻に切り抜いて切り抜いて作った塩保朋子さんの作品。
佐藤氏の作品はどれも偏執的に隙間を満たし、際限なく枝を広げる精神と肉体の産物(最中の作品は肉林状態であった…)であり、
塩保女史のその作品は、昇龍のような火焔のような、
はたまた胃液の中を生きる細菌のようなうねる「生命」そのもの。
自分の中にある「何か」に突き動かされて生み出されるモノ。
私はその得体の知れなさや、逆に明るみに晒す蛮勇に、そしてそれを生み出すエネルギーに圧倒されることを
たまらなく望んでいるのだと、表参道のカフェでHTさまと語りあいながらつらつらおもっていた昼下がり。
お別れした電車の中で、日頃の疲れとはまた別の、浄福感みたいなもので満たされた、本当にお腹いっぱいな一日でした。