はぐれ刑事純情派みたいやな…

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も少し考えよう。

・芝居と演技

・舞台の上で行われていることと、画面の内側で映されているものの違いを。

・評論、批評することについての自分なりのけじめを。


たまに木村さん舞台やらないかな、と思うことがある。
そして、いろんな場所にお邪魔すると、そういう切望を感じるほどのつぶやきにつきあたることがある。
それもいろんな理由で。

私の場合、舞台ではキャメラや発声法に特徴のある所謂「木村method」(笑)が今現在の形そのままで通用するわけではないだろうから、どうするんだろう?という興味と、それを経た木村さん(の演技)はさらに面白く展開していくのでは…という予感(笑)によるものなので、最悪自分は見届けられなくても良いのです。

むしろ何回も観るくらいだったら舞台演劇好きな人に席を譲るかな。
ファンでいっぱいの、舞台を破壇させることにお構い無しの嬌声飛び交う劇場なんて、想像しただけで本当に嫌!!なんです。


すまふぁんの方って、何ゆえこんさーとを望まれるのか疑問に思うこともある。
その割には積極的にCD買わなかったり簡単に貶したりするじゃないですか。

木村さんしかそんなに観ていないけれど(笑)、少なくとも近年の木村さんに限って言えばこんさーとより映画の露出の方が色んな姿を見られるし、異物と相対することが多いような気がするんだけどな…そこじゃないんだな、きっと。



人それぞれでいいんですけど、でもな〜…

私が木村ふぁんだという以前に捻くれたあまのじゃくなだけでしょうが(笑)

木村さんが舞台を踏むとき、学芸会で子どもの出番を待つ母の視線やこんさーとと同じように自分がはっちゃけようとする感じは、演者としてのキムラタクヤを殺しかねないと思ってしまうのです。

素人ながら、(しかも結構な贔屓目アリ)木村さんは日本のテレビドラマに出て、そういう局面にあたる演者さんの中で群を抜いて「ラブシーン」がお上手だと思う。

のーこーなキスシーンだけでなく、いちゃいちゃだったり、好きな女性をからかったり激情をぶつけてしまう会話の呼吸だったり。

でもそれって、ラブストーリーなのか?と問われるとそうでもないような感じがします。

逆に「ラブストーリー」をそのまま「愛の話」と捉えると別にラブシーンがなくても成立するものなんて星の数ほどあるだろうし。
例えば、手を握るだけだったり、視線をかわすだけだったり、二人になった時の空気感だったり。
それに愛って一対の「男と女」のものだけじゃないし…
友愛や敬愛、師弟愛や父性愛だったり、その裏返しの愛憎も「愛」のうちかな。

(そう考えると「アマデウス」だって「覇王別姫」だって立派なラブストーリーだよなぁ…)

木村さんのラブシーンの表現力ったらないので(笑)「ラブストーリー!!」っていう気持ちもわからなくもないですけども(笑)
ラブシーンありきのラブストーリーってねぇ…筋に関してはどうなのさ、って事態に陥りやすいと思うので…どうですか?(笑)

そう考えるとどうなのだろう…日本て愛の表現やその描写の語彙が割と貧弱なのだろうか…?今度のは、どうだろか。

いまさらながら「ICWR」のお話(笑)
暫くはこの時差をお楽しみください。

しかもレンタルで済ませてしまう不届き者でございますので。

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何が観たかったかって、木村さんの声仕事。
しかし本人が声吹き替えるってとことん不思議やな…

わかったこと。
木村さんは、場を掌握するのにいろんな要素の相対的なバランスを意識している。
(それが時に木村さん自身の動きを制約することになっても)

そして、shitaoは生まれ変わったんだな。声が剥き出しになっている。

こうしてみてると、ハリウッドの俳優さんたちが日本での自分の吹き替えを聞いてどう思うのか聞いてみたいな、なんて。


画面から緑が滴る。
きれいはきたなく、きたないはきれい。
天を目ざす呻き声は救いを乞い願わせる。
再び緑が折り重なり、その隙間から赤、白、黒。
天は返答する-甘露によって清める、ちいさく尊い者たちを。
姿はどこにもいませども。

ってかんじかねぇ(誰に聞いてんだ)

しかし、自宅のテレビ画面がほぼB5サイズなので情緒の欠片もないです(悲)
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えぇと、先週かな?
すますまで、与謝野晶子の話題が出てきて。

ちょっと思ったのだけど、木村さんと誰か…お松さんとかふかっちゃんで、
与謝野鉄幹と与謝野晶子の物語がみてみたい。

晶子は関西のお嬢で短歌の才に恵まれ、鉄幹の雄々しく熱情迸る短歌と人物に惹かれて単身上京。
夫婦になっていっぱいの子宝に恵まれてるのだけど、晶子の活躍と裏腹に鉄幹は短歌に行き詰って精神を病んでしまう。
文学的潮流の変化もあって北原白秋なんかの弟子筋にも離れられ、あとは子守をするほど慕う石川啄木くらい。

晶子は鉄幹に代わって生計をたて、ある年夫婦はヨーロッパ旅行を決行する。
穏やかな暮らしが訪れた矢先に鉄幹は先立ち、晶子は源氏物語の現代語訳に余生をささげる―

どうでしょうか(笑)
ドラマチックにしなくても十分劇的な夫婦っぷりだから、ドラマ↑じゃなくテレビドラマ↓な雰囲気が良いかな。

…って、私って妄想 想像に関しては燃費良いんだな~…あぁ…


しかし「8」のキーがなんでか凄く押しにくい。括弧をよく使うので凄く不自由を感じるなぁ。




がんばりますっ!の木村さん
まるでサクマのいちごみるくのようであった。
(変態的表現陳列の術)

あなかわゆらし!!なんだあれ!
やっぱりあんなお父さん家にいたら嫌だな!(失礼)

ツボなんかもいちいち挙げてられないくらい、あの20分ごと包み紙(イチゴですが)できゅっとくるんどきたいわぁ(変態重ねの術)

一番好きだったのは、紅白の日の寝起きでがんす。
宇宙戦艦トマトの音にビクッ→やっとベッドから起きたときのよたよた→ささきいさお氏に本意気でびっくりしてトマトソファに座り込むという流れですな。
(変態垂れ流しの術)

しかし木村さんのいわゆるパブリックイメージを利用しないかなり稀な対木村企画(前回の全力坂なんかはストイックさ、全力をカッコよく演出してたような)の気がします。このトマト企画、友寄さんが木村さんサイドに見せた企画書見てみたいわぁ…

木村さんの姿に友寄さんが何を見ているのかはわからないけれど(笑)
トマト企画後のトークのときには、スタジオのバックスクリーンにトマトの銀河がどんどこながれてたんですよね。(他は番組ロゴでしたが)
 きっと、ふぁんの欲目だけではなく、惚れ込むところがあったのかなと思った次第でありました(笑)

しかしテレ朝バラは貪欲だな!何といっても編集に思いいれを感じる(笑)

おかしいのはわかってます
というわけで明日までの絶賛トマト祭り継続中。

今夜は常夜鍋&トマトモッツァのサラダ。
本当はトマトとアボカドのサラダにしようと思ったのにアボカドが売り切れてるという珍事が発生していたため断念。


トマトが大好きなのは料理に入れると他の品との彩がはっきりするのもひとつ。

しかし弟2号がトマトが一切食べられず、父が痩せるためにパスタ類☓なために、母は難儀しているだろう…なんて贅沢なやっちゃ!面倒くさいわ!
弟よ、あんまり好き嫌いしてると将来の嫁さんを泣かせるぜぃ?

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トマトつながりでヤマト(←逆…か?)

岡田斗司夫さんという、筋金入りのオタク(誉めてます)で語り属性に入るであろう方が実写ヤマトのファンクラブを作ってました。
 これからも盛り上げたいということですので、覗かれてみると面白いかも。
 (twitterでもつぶやいていて、主役の方についても触れられてましたが)
 こうやって、スペースファンタジィモノとして期待を寄せている方々がいるというのは嬉しいけれど、その度に木村さんの背負ったモノの壮大な重さを再確認してしまうのですよ(^v^;)
 ヤマトHPもいつのまにか変わっていましたね。

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 そうそう、昨日のワッツで「おっ」と思ったお話。
 「俺スペース」に新たに加わったという松本先生画の「古代&雪」。
 一体どういう経緯なんだろう?と思いまして。
 (今回のプロジェクトに西崎さんの名前があったと記憶してるのですが、権利関係で両者係争してませんでした?だから松本氏が今回木村さんに贈ったというのが意外で、なんだか嬉しくなったのです。

 



一人暮らしの良いトコロ?
ひとつはとんちきな食べ物を心おきなく食べられるところ、なのか?
えぇえぇ、笑ってやっておくんなまし。

というわけで食す。
…うまかった(なんか悔しい・笑)

トマチリよりもあっさりしてて、フルーティーのなかにも魚介のコクがマイルドな。

元来トマト狂なわたくしには嬉しい発見でありました(終)


木村さんonトマトパジャマは単体遠目でみるとイチゴみたいで可愛かったんですが、あれだけ部屋中トマトマトマトマト∞…だと草間彌生と楳図かずおワールドのコラボみたいで気が狂いそうだぁ…


そして直近の木村さんの可愛らしいことよ。
痩せて顔のパーツがはっきりくっきりしてますね。
やっぱり顔に対して目の横幅(縦もですが)がすごく広い。漫画か。


叔父貴とドラ息子でお送りしております、って感じがしたなぁ。
「blowin’ in the wind」がいつもより深くて暖かいような意味に思えて。

中2の弟と視ていたのですが、彼の食いついたのは跳箱17段。
「すげー、こんなん無理だよ!」連発で結局最後まで。
さんまさんの結婚断念の件なんかはちょっとチラ見するようなウイ奴でございますが。

ブルーインパルスのときは、「乗ってみてぇ!」なんて言ってました。
(木村さん、ビビってる時でも「怖ぇ~♪」とか、"♪"が付いてる気がするのよね…具体的な恐怖感なんて想起させない言い方…)

 そして「清志郎に言っとくね」。
 木村さんの愛が、"歌の表現"からはみ出してしまったように思えた。
 歌を歌うというよりも、「愛してるぜ清志郎!!」って届けているような。

 木村さんと清志郎さんは、きっと、「いつか」会うと思うけれど。
 今はもう少し、その時がなるべく遅くなるようにと思ってしまう。

 キヨシローは、優しいから待っていてくれるさ!!(笑) なんて。
 CHABOさんも、受け止めてくださって良かった。


 thank you for ...♪

 

molto vivace con brio

2009年12月25日 t,k,
タイトルを「あかーん」にしようとちらと思ってやめました。適当人間。

Mステ、見事にすまっぷさん部分を見逃し…
 録画しようと思ったら8chが…嗚呼サンタ・ニコラウス、吾に危機管理能力を授け給え…!
 どうやら白かったらしいので、まぁ良かったということで納得させる。

 しかし、某浜崎あゆみさんを拝見していっっつも駆られるこの思いはどうすればよいのだろう…
  取りあえず、「憧れ」と「オマージュ」と「PAKURI」と「c〇pycat」の境界線を思うのであった。(いかん、エイベックス帝国に消されるかもしれない…!)

 
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ワッツも笑い方が俗っぽくて良かった(?)変に斜に構えてなくて。

 やはり木村さんはああいうバラエティではキャラごと展開を「造って」いこうとしてるのですね。演じてるわけだ…
  「怒ってる」っていうのは、ちょっと芝居として巧すぎたのかなんなのか。
   それで木村さんは得してるかというと、そうでもないという(笑)
 
 あの、「世界に… S.O.N version」の"S.O.N."って、孫version、ってことなのですか…?(笑)
 
怒ることは疲れるし非生産的なので、できればしたくありません。
叱るのも、そんなに諭すほど偉くないので、せいぜいが注意くらいです。

 ある情報を得ました。
  情報の真贋はどうか。
  情報がどうやって伝わってきたのか。
   どんな人が発信していたのか。発信者の逆サイドからの情報はどうか。
   誰得の情報か、情報が流通することで発生するものは何か。
   一次資料は信頼性のおけるものか。文脈、前後関係はどうか。
  
  そしてこの情報について、私(あなた)が労力を使って確かめる必要のあるものか。誰かに伝える必要のあるものか。誰が潤い、誰が傷つくのか。
 
   
   せめてこのくらいは、そちらで済ませてから私に教えてくださいな。
    じゃないと情報そのものだけでなくて、あなたにまで「んっっ!?」と思ってしまうのですよ。しかも母ほどの歳であろうお方に。
  
  あんまり気にしてる私がいかんのかしら…
  りてらしーって何のためにあるのか、もう一度考えてみる機会だと思うことにしました。(自己完結)


 なんか…木村さんウォッチによって、そういうのが鍛えられた気がしないでもないが、逆に気をつけるようになってから木村さんの各方面への配慮を垣間見ると引くぐらい疲れそうだと思うようになったというだけの話かもしれない(笑)



 
まどろみながら、片付けながら、梅こぶ茶飲みながら考えともつかぬことを徒然三題。

 ①classicとantiqueについて。
  そもそも両者の違いは。特に演技・役者においてそれは何を指すのか。
   例えば歌舞伎はどちらに該当するのか?(antiqueではない、かな?)
   antiqueの芝居って、定型を楽しむための芝居の事なのか?
   
    【取り敢えずの結論】∞ …
 
 ②木村さんの眼球は何で尋常じゃなく綺麗なのか。(特に白目)
  何でと言われても答えの出しようがない題である(断言)
   赤ちゃんレベルで潤っていて、澄んでいて、白目部分が薄青い!!
   普通の状態で瞳孔が見えるって変ですよ…ね…
   
    【取り敢えずの結論】ツボの殿堂入り

 ③fiction-fact-real-realityの関係について
   realityを周到に張り巡らせたfictionは存在する。
   敢えてrealityの手を借りず、fictionだけでrealを構築する企みもある。
   factをパッチワークして似非real≒fictionを創ることもできる。
   fictionのなかにrealをもちこんでrealityを生み出す試みもある。
    そしてfactではないがtruthを表現する瞬間もある。
  
   どれが高尚でどれがえらくないかなんてあるのか。
   善悪優劣は存在するのか。
    判定するのは誰なのか。
    
     【取り敢えずの結論】できるだけの敬意と関心をもって接したい。

 ※オマケのつぶやき※
  木村さん、一回鬼になってみちゃったら…?
   (御本人が、そう望まない限りナイでしょうけど。今日はそんな想いが…)
  
♪上のような心境の中木村さんを思い浮かべた歌♪
  Cocco 「強く儚い者たち」
  http://www.youtube.com/watch?v=ANzEREI6Ffw&feature=PlayList&p=E5B1E907320C23D7&playnext=1&playnext_from=PL&index=7
    歌詞がね…今の木村さんに重ねてしまうと凄く、タイムリーに切ない。
   
   UA  「太陽手に月は心の両手に」
  http://www.youtube.com/watch?v=bO-lUyWIm84
     大事なもの二つ懐いて、目もくれず疾走してる感じ。
    …2曲とも巫女さんモノですな(笑)
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 それから、皆様お忙しいことと思いますが。
 是非、マンモだけでも…受診や検査は、絶対に、必要です…
でふわふわ酔ってるところに木村さんの声。

ん~御自慢が楽しそう、机?をトントン叩いてる音。

英語で電話できるなんてすごいな~羨ましい~
(言語は電話とケンカが出来れば取り敢えず一丁前だと思ってる人間)

 しかし、あのラジオを聴いていたヒト(主にキムラふぁん)なら誰もが思ったに違いない。
その踊り、見せろやぃ

NYの楽しい有意義な時間と思い出のお裾分け、頂戴しました。
有難うございますv

そしてまたKAHLUA MILKの海へ漕ぎ出る…
wwwプロトコルでの散歩じゃ、日本語だけでは済まない時もある。

時々お邪魔しては興味深く拝見するのが、"木村さんファンのコミュニティ及びブログ"。
お邪魔する機会でいえば、中国のgoogleみたいなところにある掲示板?と、ロシアのファンサイトが多いし、違うベクトルで面白い。

中国の(韓国もそうかな?)「拓飯(音をあてるとこうなります)」は概ね本国より年齢層が-10のような印象を受けます。使ってる中国語がキャピキャピしております・笑 画像も逆治外法権ですし、何より熱い!早い!
 今でもなかなか気軽に中国→日本は難しいですから、netを駆使して、時に切ない思いを抱きながら楽しんでおられるわけですね。
 そこでいろ~んな呼称が使われるわけですが、面白いのが「大神」。
日本だと…例えばかわいく落した感じのものが多いと思うのです(ex.たっきゅん)。だけど、どちらかというと「上げてる」印象のものが多いんですよね。
 そして、たまーに(過日のような時・笑)「どうして彼をもっと大事にしないの日本人はっ!」みたいなtopicが上がってると、ボルテージの上がり方が大陸風というか(まぁ、掲示板なので・笑)。実は日本に来てる中国留学生の女の子で、ロンバケ・ラブジェネ・眠れる森観てない人はいないんじゃないかという浸透ぶりです。「日劇」という分野の頂点にある感じかな。思ってらっしゃるより、凄いのですよ。


そして別方向で面白いのがロシアの方が立ち上げた、若いけれど割と大きなファンコミュニティ。
基本的にはドラマのあらすじ、雑誌、CM等などの感想、動画の掲載、ほぼリアルタイムのニュースの更新がメインですが、端々に「欧」の感じ方が出ていて、面白いのです。えぇと、木村さんがfeti寄りの表現?をするときに顕著ですね。すごく新鮮に「えっ、こんな人いるの?!しかも37?ありえん!」と驚いてみたり、「アジアではこういうフェティシズムも備えた男性がもてはやされる傾向があって云々…その結晶がキムラタクヤみたい!」とか論じてるっぽくしていたり。

 ところ変われば受け取り方も違うもの、そして同時に共通するところも。

まこと、おもしろきことにて。



恐れ多くも(しかもあんな素敵な場所と)リンクなぞをさせていただいてから、カウンタは尋常じゃないくらい回ってるなぁと気づく。

主に木村さんをウォッチしていて、書き留めておきたいなぁと思ったことを晒しちまってるこの雑記。
(まぁ、最近は純然たる雑感や感想文になっちゃってますが)

「感じたこと」を「なんでこういう風に感じたんだろう」と探ってみて、文字にして残す(しかも人さまの目に晒す)という作業は興味深くて、やっぱり難しい。



私は、「共感」と「同調」は違うものだと思うし、wwwの世界では特に注意深く峻別されていい事柄だと思います。もし拠って立つところを自分自身に置きたいのなら。
 私の叔母は看護師ですが、「共感」は、看護師にとって一つの"職掌"であり"職能"であると常々言っています。そして、"共感はすれど、同調はしない"というのがポリシー。
私は叔母の影響を受けてか、この言葉は折にふれ思い出されます。

 全く異なる環境にいるヒトたちが、同じヒト(の仕事)に目を魅かれて語ってる。
 そのヒトの繰り出すモノゴトに反応して(まぁ、モエともツボともいえますが・笑)盛り上がれたりするのはやっぱり凄いことです。
 その時に私は、共感をしていたいし、同調はあまりしたくない(グッとくることに賛同はしますよ!)
 同調はね…やっぱり忌避感というか、危険なかほりがするのです。共感も同調も、「そうそう!」の部分でかぶるかもしれないけれど、一色に一気に染まるでしょう? 私は、そういう空気にはあまり参加したくない。

「そうそう!」となった時、その"私"と"誰か"は全くの別物であり、"お互い"が別個であることを改めて認識し、それが共時(モエツボ)性を成し遂げたことに感動しているのだと思います。しかも、やっぱり捉え方や表現の仕方は全く違うわけで。

 同調というのは、"私"が"us"になり、"somebody"になり、"nobody"に成りうるわりに、何も産まないことが殆どだから。


敢えてこのカテゴリで書かせていただきました。
by自分で書いておいて自分の文章で煙にまかれるkonynon
 



やさしいなぁ木村さん…

「YARANAITO」ね、また大変だしいろいろと。

貴族ごっこも可愛い。

ワッツの何が好きって、まったりアフォ風味なのにいきなり入る大真面目のNIKONと日清のラジオCMなのですよ(笑)

って今日はちょっと短めです♪

---ちと追記。
久利生さんは滝田さんの公判検事じゃなかったのね。
だから余計に自責の念というか…呵責があるのかなぁ…

City Lights 

2009年7月28日 t,k,
恥ずかしながらやっと観ることができた。

「素晴らしい。」
好きだなぁ。
愛にあふれてる。哀しくなったり笑ったり。
人を笑顔にするということの、いかにすさまじく難しいことか。

楽しんだ後に、しみじみチャップリンの才能に驚嘆するばかり。
演技(あの運動神経!)、演出、作曲…

前から思っていたのだけど、木村さんチャップリンどうかな…
日参しているブログで書かれていて激しくうなずいてしまった。

監督三谷さんで、サイレントで、音楽服部さんで、深い時間にさらっとやるようなの。(うわ~超みたい・笑)

♪やめられない 止まらない ICWR妄想! ♪ (えびせん的に)

なんと5日目にしてまだ燃え尽きぬ裏読みという名の妄想(笑)

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今回はあの雨のシーン。
圧倒的なボリュームの美しさ溢れる「再臨」です。

今まで聖書の記述のなかの、まさしく「物語の再物語化」という視点(キリストが人間としてこの世に存在していた時代)に重ねてみていたのですが、蒸し暑いバスのなかで別のことを考えてました。

近現代における「キリスト」の語られ方(or議論のされ方)も下敷きとされているのでは?? ということです。

絵画でも描かれる「最後の審判」は終末の瞬間にいきなり訪れるわけではなくて、その前にハルマゲドンがあって、その前にあるのが「千年王国期」。現在は、人間だけで統治していかねばならない大変な期間、なのです。
対してこれは神による直接統治期間を意味であり、"至福の千年"とも言われます。
19-20c末期に、主にアメリカでこの「千年王国」の解釈について主な論点となったのが、
「この時期の、どのタイミングでキリストが再臨するのか」ということでした。

1.「千年王国」始まりの前=前千年王国説
2.「千年王国」が終わったとき=後千年王国説
(他にも、無千年王国説など)

1.の場合、神の先立ちとしてキリストがやってくるので、人間だけで神を迎える状態に整える必要性がなく、人間は喫緊の課題として考えなくなりますから、自然と楽観的な捉え方をします。(福音楽観主義)

2.の場合、最後の審判の先触れとしてキリストが再臨しますから、いま大荒れのこの世界を人間だけで整えて、神に差し出さねばなりません。こうなると、人間はてんやわんやです。早速聖書をよくし、善き行いをしていこうとします。それが目標になるのも、また自然です。(福音根本主義)

しかし、現代になるにつれて、この世界は暴力と、(主にキリスト教圏での解釈では)混沌と混乱の相を呈してきます。こうなると、2.のほうにトレンドが移ってきます。(大体20c後半にはこちら優勢の状態)
彼等はかなり保守的で、ストイックで、なおかつヴァチカン‐churchの結びつきとは異なるスタンスを持とうとします。
(ヴァチカンは、聖書ののちに人間がつくった機構なんで。)
ブッシュJrは熱烈な2=ファンダメンタリスト、ですね。イスラームからのアタックに対して、傍から見れば愚かしいまでの勢いで攻めることができたのも、この思想が背景にあったがゆえの責任感、があったからなのかもしれません。

ただ、現在そうであるというだけですから、経済状況がよくなって世界(アメリカ?)が浮かれ始めたらまた1の方に軸が移行していく可能性もあります。
過去4・5回ほど、両者間で大きな潮流の変化が認められています。

とまぁ、ここまでは過去の、しかも現実のお話。
ここで、「i come with the rain」を振り返ってみます。

おそらく、時代設定は今とそれほどズレのない時期でしょう。
場所は、汚染されきったアジアの小さな島。

キリストは、アジアの青年の肉体を纏って「再臨」してしまいました。
一番衝撃を受け混乱するのは、絵として、像として、(語弊をおそれないでいえば)自分自身のなかに結んで信仰してきた信仰者たちや、対立概念として今まで反駁し合ってきた論者たちではないでしょうか。

 崇め奉り、金箔の装飾を施そうとする者。
 反対に、「偽物」として断罪しようとする者。
 その現実から目を背ける者。

火種となってしまうことは必定でしょう。
HTさまの仰るように、shitaoはかなり荒唐無稽な背景をしょっています。
だからこそ、現在、本当に(作品としてであれ)あったとしたら…?
キリスト教世界はどうなってしまうのでしょうか。

いくつか前の記事で「聖書の語り直し」とか書いた記憶がありますが、もしかしたらこの作品は今=現代、現実世界における物語、なのかも。(凄い薄いカモ、です)

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妄想づかれしたので、白い鯛焼きで糖分を補給します♪
明日は九十九っち、その前にwhat’s~♪

注;全体的にヒラヒラしていますので、どうぞ御了承くださいませ。




「i come with the rain」を観てすでに4日経ってますが、まだまだ抜けません…

そんな中、今日の妄想部分の軸は「mengzi」でした。
実は↓で好き勝手書いてますが、今イチ彼の担うモノがわからないんです。
klineと親しくしているから「天使X」なのかな~とも思うし、逆にdonpoの痛みを全く理解しない次元にいるから「愚者」なのかな~とか、はたまた「異教徒」かなーとか…むにゃむにゃ。

そんななか、ふと「9mm弾…(うっとり)」のシーンについて考えていました。
いつもお邪魔させていただいてるblogで触れられていたのもきっかけですが、
あのシーンが、観ている時以上に「???」に思えてきたんです。
でも、あのトラン監督がただイチャコラシーンを撮るわけないしなぁ…って。

あそこでの主なモチーフは「銃」そして「弾丸」です。
それらに添えられた情報は「parabellum-9mm」だけ(だった、と思います)。
もっとも普及している小銃の一つではないかと思いますが、
この「parabellum」という名前の由来、ご存知ですか?
"Si Vis Pacem, Para Bellum"‐汝平和を欲さば、戦への備えをせよ- という、ラテン語の警句なんです。
何と 妄想裏読みしがいのある言葉ではないか。

もし、mengziを「その所有者」と位置づけた場合、彼は平和を欲し、戦に備える者ーまさに「警官」の鑑のような感じです。たしかにmengziはklineには眩しいほどの健全な「正義感」の持ち主ですしね。それを振りかざしてはdonpoにまっすぐ切り込もうとします。
 …ここまで考えて、甲冑を纏い聖剣をかざす「大天使ミカエル」を思い出しました(wikipediaに行ってみたらその絵があってちとびっくり)
今の時点では、それに類するものなんでは…と思ってますが、うーん…書いた瞬間から、なんか違う気がする(笑)
 でも、絶対何かの意味が托されてるはずなんですよ~!(と、トラン監督は思わせるのです・笑)
 
 今週中にはぜっったいまた観に行くので、その時はもっと広げて考えられるかしら。


まだまだ行きます。

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現時点では、キリスト受難の現代における語り直し、という解釈。
しかしそれではすべて片付かない気もする。

shitaoは神の子、liliはマグダラのマリア、klineは堕天使、hasfordは洗礼者ヨセフ(彼の末路)、donpoはマリアの夫。(と捉えています、私は。)

klineの懊悩、苦悩、精神的苦痛はdragのフラッシュバックのように、今も彼を苛ませる。同化してしまう性質、とても繊細なのだろう感性は彼を突っ走らせる。彼はshitaoには同化できなくて、でも彼を「父の遣い(この漢字でした、よね?)」として救出したことで、彼自身の魂は救済されたのではないだろうか?
 いくつかの作品をみたなかで、joshは顔筋を激しく動かすわけではないのに、その表情はいつも「なにか」を表現していると感じていた。その鳶色の瞳のように、低く安定した声が、平静の熱、知性、狂気、その狭間をやすやすと行来するjoshの存在は、だから、彼がどんな役柄であっても観る者に共感を自然と与え遂せることができるのではないかと思う。

donpoもまた突っ走る、しかもそれは常に実際的な痛みを、他者へ暴力的であること、そしてliliを溺愛すること。他者にとっては彼は懼れでしかないが、彼もまた恐れている。人を生身の見えるままリンチできない場面、liliが離れていくこと…鎧のような肉体を持つことも、関係しているのだろうか。
そしてshitaoという存在を恐れる。赦されることを拒絶しようとする。shitaoを「ああすること」で彼もまた、大きな十字架を背負っていきてゆかなければならない。
 leeは、この恐ろしくも究極の弱さを抱える人間の極端のような人物を、厳然たる形(肉体)式美と考え抜かれたactionによって見事に体現していると思う。その明確なストイックさが、より高いところでこの役柄を成立させているとも感じる。
初めて作品を観たけれど、きっと彼の出演する作品にはそのストイックさに起因する品性がいつも漂っているのではないだろうか。

shitaoは、「癒す」以外のすべての欲求をもたない。liliの抱擁や、世話をするすべてのシーンでもわかるように、他者はかれにとって「何かを与える」ものでしかないのだろうか。彼は何者も望まない。その無垢な清さは、あらゆる穢れ淀みを抱きしめることで自らに移す。彼の無上の施しを受けたものは、それが治癒されると同時に彼から逃げるように離れていく。しかし彼自身は、激しい痛みに苦しむ。肉体的な傷がいつも彼の筋肉のない身体に纏いつき、「痛い」という感情‐あるいはその者がもつ穢れさえ受容することが彼に「癒される」状態を赦さない。神の子であったとしても、shitaoの肉体は土でできた人間なのだから。
 彼は痛みを恐れている。それを吐露できたのは父の遣いが来てからのこと。堕天使に抱えられた彼は、あの後どうなったのだろうか。痛みから、その恐れから解放される人生は待っているのだろうか。
 さて、キムラタクヤである。テレビドラマでの姿とはかなり異なる「居かた」をしているのは、きっと日本人で彼を知る人であれば誰にも明らかではないか。
しかし、私はこの作品での彼を「新境地」というよりも、むしろ「真骨頂」であると感じた。撮影時は35歳であるはずなのに、無垢であどけなくいたいけで、絶えず穢れていて強烈な美しさがそこにある。特に、shitaoが再臨し、天啓を受けるあの雨のシーンでは、それが顕著にあらわれている。(産まれたて、だから当然だが)
いつかの本で目にした「傷めつけられて初めて輝く木村拓哉」という題目を思い出した。作品のなかでは、殆ど話さない代わりに、shitaoという、(パンフレットで監督が自画自賛するように)アジアで初めての基督なる稀な存在を、見る者に否応なく納得させてしまう「何か」を持っている。(これはテレビドラマにも言えることだと思うけれど)
両性具有的な身体の特長においても、今回はフェティシズム傾向のエロスを際立たせることがわかる。つるりとして、すらりと細長い、それでいて挑発するような曲線は少ない。これがしなやかということなのか。
 これは欲目かもしれないが、これまでのトラン監督作品において必ずヴィーナスはイェン・ケーであったのに、ここではキムラタクヤがその役目なのではないかと思う瞬間もあった。今までの映画作品でも、常にクリエイターのビーナスであったような彼だが、この作品はきっとその少ない作品群のなかでも不思議で、名状しがたい魅力をはなっているし、純粋に俳優キムラタクヤを考えるのに重要な役割を果たすと思う。

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…なんじゃこらな妙ちきりんな文章ですが;
この三人が揃うことはもうないんだろな~とおもうと、なんだか淋しくなったkonynonでした。
日曜日、「i come with the rain」観てまいりました。
んー・・・凄い。

フランス映画だし、ホラーサスペンス?だし、シアターは私一人かなぁと思っていたのですが…19時位の回で座席五割埋まってました。びっくり。
目玉テレビさんの宣伝効果、いいのかわるいのか…

隣の三人はお嬢様連れの家族だったのですが、思わず「いいんかい…」と口の中で呟きましたよ。

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さて、作品。
怒涛のスペクタクルが襲ってくるでもなし、価値観を押し付けるでもなし。
ただただ観る者に委ねられる作品だと、感じました。それが怖くも優しくもあるところでしょうか。
だけど「つまんない」って感じではなく、帰りの電車のなかでふつふつと映像や、感情が湧き上がってきました…「酔う」という感覚を久しぶりに味わいました。

レンズの絞りが多角的な感触を提示し、衣装はメタファーを類推させるようなテクスチャーを感じさせる。心象風景としての登場自分物に与えられた「空間」の美しさ。ちりばめられた音楽。

そして、「痛み」を体現しつくすためかと思える極力削がれた台詞と対極にある俳優陣の身体表現のバリエーション、それを受容し昇華する監督の叡智。
それらに思いをめぐらせる度に、また味わいたくなる。
私にとっては、中毒性があるみたい…

暴力的であり観るものにこれでもかと提示される「痛さ」、観客へ「要するにこれって~ってことよね~」などと言わせない表現方法、endingなど、絶対に気軽にお勧めすることはできない。
けれど、この特殊な、それでいて現代を象徴するようなこの作品に判断をくだすには文字通り「観るしかない」のである。
そして、席についてopeningを迎えた際には、「自分なりにわかろう」という気持ちで臨んでいただくことをお勧めする。きっと、自分自身が「何か」を捕えたくて仕方がなくなってくるだろうと思う。


私はまた、明日にでも観に行きたい。
shitaoに会いたい。

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