憎ませてよ、お母さん
 「母」という存在は、人によって様々な像を結ぶ。

 憧れの女として、よき先達として、反面教師として。

 自分を足蹴にする姿を見上げてる女児でさえ、「母」は「母」。
 年を経るごとに、その存在をどう捉えるかは変わっていくけれど。

 それでも、躊躇いなく断ち切るには余りにも特別なつながり。
 


 ヘルガ・シュナイダー 「黙って行かせて」


  母親は、空襲の夜に出て行った。6歳の彼女と弟を置いて。
  
  30年後、彼女は息子を連れて「母」を尋ねた。
  自分の息子を抱きしめてほしかったから。

  母は空襲の夜を抜け出して生きていた。
  「アウシュヴィッツ収容所の優秀な職員」として。

  自分の孫には一瞥もくれず、
  娘に「制服」を着るようせがむ母を彼女はしかし、棄てきれなかった。

  さらに20年後。
   50歳になった彼女は、老人ホームで夢現を彷徨う母に会わねばらならなくなった。
  
  殺すほどにお互いを刺す会話。

  母はナチとしての誇りを傷つける娘に激昂し、
   「マミィ」と呼ばせ、キスと黄色のバラをねだる。

  娘は母の犯してきた罪と、彼女と自分との「血のつながり」に慄く。


  自分の"業績"を詰問する娘に母は生気に満ちた瞳で非難する。

  『自分が潔白だなんて顔しないで! あたしの目を逃れることなんてできませんよ、あんた! それともユダヤ人に対していちども憎悪の念を抱かなかったって、ほんとうに主張できるの?』

  彼女は否応なく引き戻される。
  「従順に」「無邪気に」ユダヤ人を迫害した少女のひと時を。

  「マミィ」と呼ぶに値しないこの女。
   早くここから消えてしまいたい。

  黙って行かせて、お母さん。



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 正直言って、流麗な文体ではないし、
 作中で「母」に振り回される彼女そのもののように感情の抑えがきかず、散漫な印象さえ受ける。

  ただ、それが彼女の混乱ぶりを表わすようで。


  この母娘が刺しあったら、どちらが殺してしまえるのだろう
   なんて、詮ないことを思ってしまった。
  
  
  ヘルガ・シュナイダー「黙って行かせて」新潮社
  
  

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