あつ! について。

2010年2月3日 tv
テレビドラマを観ていて、「圧」を感じることが少なくなっている気がする。

例えば大太鼓を傍で打ち鳴らされて心臓が震えている実感とか、太陽が地平線に消えていくのをただ立ちすくんで見守るしかないあの感覚に似た、そんなもの。


私は雑食だし批評家でもないので、そういう強みでいろんな表現やそれをつくりだそうとする姿勢、気概ごと楽しみたい性質なのです。

ただその世界の人びとが住まうところが「いま私たちがいるだろう世界」だろうが、「この世界と近接する世界´」だろうが、全くのパラレルワールドだろうが、それを描き始めてから筆を置くまでまっとうしてほしい。

そして電波をつかって流す以上、それを画面に留めるのではなくて観ている人の心まで届けてやるという意志を示してほしい。電波の排泄行為は痴態を晒すのみ。


高望みなのかなぁ…(笑)

紗がかかったような凝った画面や、どんどん細切れにされるカットも表現方法の一つではあるけれど、それに酔ってるようなのはお洒落でもなんでもないと思うのだけど。

「玄妙なるもの」「名状しがたいもの」を描く(書く)状況や臂力が少なくなっていってるんだとしたら、これほど寂しいものはない。


木村さんのドラマでさえも、たまーに90年代のものをみるとそのカットが刻むテンポのゆったりさに怯むくらい時代を感じることがある。

テレビが「お茶の間の団欒」の中心に有った時代は過ぎたかな。
でも、だからといってテレビの前に座ってる(視聴者ともいえないような)人に対して媚びるとか、阿るのが良策というわけでもない…と、個人的には思う。

野沢さんも仰っていた。
「-なぜ今、自分はこのドラマを書かなければならないのかと自問自答をする。
  この思考プロセスを経るか経ないかで、視聴者にとってそのドラマが季節ごとに過ぎ去っていく単なる電気紙芝居になるのか、いつまでも心に残るテレビドラマになるのかが決まる。と僕は思う。-」

というわけで、今日は「眠れる森」最終話。

…木村さん、制作者の方々、圧倒してくれるような作品を頼んます(笑)

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野沢尚「眠れる森」,幻冬舎より引用。

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