i come with the rain <雑感② 俳優編>
2009年6月9日 t,k, コメント (2)まだまだ行きます。
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現時点では、キリスト受難の現代における語り直し、という解釈。
しかしそれではすべて片付かない気もする。
shitaoは神の子、liliはマグダラのマリア、klineは堕天使、hasfordは洗礼者ヨセフ(彼の末路)、donpoはマリアの夫。(と捉えています、私は。)
klineの懊悩、苦悩、精神的苦痛はdragのフラッシュバックのように、今も彼を苛ませる。同化してしまう性質、とても繊細なのだろう感性は彼を突っ走らせる。彼はshitaoには同化できなくて、でも彼を「父の遣い(この漢字でした、よね?)」として救出したことで、彼自身の魂は救済されたのではないだろうか?
いくつかの作品をみたなかで、joshは顔筋を激しく動かすわけではないのに、その表情はいつも「なにか」を表現していると感じていた。その鳶色の瞳のように、低く安定した声が、平静の熱、知性、狂気、その狭間をやすやすと行来するjoshの存在は、だから、彼がどんな役柄であっても観る者に共感を自然と与え遂せることができるのではないかと思う。
donpoもまた突っ走る、しかもそれは常に実際的な痛みを、他者へ暴力的であること、そしてliliを溺愛すること。他者にとっては彼は懼れでしかないが、彼もまた恐れている。人を生身の見えるままリンチできない場面、liliが離れていくこと…鎧のような肉体を持つことも、関係しているのだろうか。
そしてshitaoという存在を恐れる。赦されることを拒絶しようとする。shitaoを「ああすること」で彼もまた、大きな十字架を背負っていきてゆかなければならない。
leeは、この恐ろしくも究極の弱さを抱える人間の極端のような人物を、厳然たる形(肉体)式美と考え抜かれたactionによって見事に体現していると思う。その明確なストイックさが、より高いところでこの役柄を成立させているとも感じる。
初めて作品を観たけれど、きっと彼の出演する作品にはそのストイックさに起因する品性がいつも漂っているのではないだろうか。
shitaoは、「癒す」以外のすべての欲求をもたない。liliの抱擁や、世話をするすべてのシーンでもわかるように、他者はかれにとって「何かを与える」ものでしかないのだろうか。彼は何者も望まない。その無垢な清さは、あらゆる穢れ淀みを抱きしめることで自らに移す。彼の無上の施しを受けたものは、それが治癒されると同時に彼から逃げるように離れていく。しかし彼自身は、激しい痛みに苦しむ。肉体的な傷がいつも彼の筋肉のない身体に纏いつき、「痛い」という感情‐あるいはその者がもつ穢れさえ受容することが彼に「癒される」状態を赦さない。神の子であったとしても、shitaoの肉体は土でできた人間なのだから。
彼は痛みを恐れている。それを吐露できたのは父の遣いが来てからのこと。堕天使に抱えられた彼は、あの後どうなったのだろうか。痛みから、その恐れから解放される人生は待っているのだろうか。
さて、キムラタクヤである。テレビドラマでの姿とはかなり異なる「居かた」をしているのは、きっと日本人で彼を知る人であれば誰にも明らかではないか。
しかし、私はこの作品での彼を「新境地」というよりも、むしろ「真骨頂」であると感じた。撮影時は35歳であるはずなのに、無垢であどけなくいたいけで、絶えず穢れていて強烈な美しさがそこにある。特に、shitaoが再臨し、天啓を受けるあの雨のシーンでは、それが顕著にあらわれている。(産まれたて、だから当然だが)
いつかの本で目にした「傷めつけられて初めて輝く木村拓哉」という題目を思い出した。作品のなかでは、殆ど話さない代わりに、shitaoという、(パンフレットで監督が自画自賛するように)アジアで初めての基督なる稀な存在を、見る者に否応なく納得させてしまう「何か」を持っている。(これはテレビドラマにも言えることだと思うけれど)
両性具有的な身体の特長においても、今回はフェティシズム傾向のエロスを際立たせることがわかる。つるりとして、すらりと細長い、それでいて挑発するような曲線は少ない。これがしなやかということなのか。
これは欲目かもしれないが、これまでのトラン監督作品において必ずヴィーナスはイェン・ケーであったのに、ここではキムラタクヤがその役目なのではないかと思う瞬間もあった。今までの映画作品でも、常にクリエイターのビーナスであったような彼だが、この作品はきっとその少ない作品群のなかでも不思議で、名状しがたい魅力をはなっているし、純粋に俳優キムラタクヤを考えるのに重要な役割を果たすと思う。
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…なんじゃこらな妙ちきりんな文章ですが;
この三人が揃うことはもうないんだろな~とおもうと、なんだか淋しくなったkonynonでした。
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現時点では、キリスト受難の現代における語り直し、という解釈。
しかしそれではすべて片付かない気もする。
shitaoは神の子、liliはマグダラのマリア、klineは堕天使、hasfordは洗礼者ヨセフ(彼の末路)、donpoはマリアの夫。(と捉えています、私は。)
klineの懊悩、苦悩、精神的苦痛はdragのフラッシュバックのように、今も彼を苛ませる。同化してしまう性質、とても繊細なのだろう感性は彼を突っ走らせる。彼はshitaoには同化できなくて、でも彼を「父の遣い(この漢字でした、よね?)」として救出したことで、彼自身の魂は救済されたのではないだろうか?
いくつかの作品をみたなかで、joshは顔筋を激しく動かすわけではないのに、その表情はいつも「なにか」を表現していると感じていた。その鳶色の瞳のように、低く安定した声が、平静の熱、知性、狂気、その狭間をやすやすと行来するjoshの存在は、だから、彼がどんな役柄であっても観る者に共感を自然と与え遂せることができるのではないかと思う。
donpoもまた突っ走る、しかもそれは常に実際的な痛みを、他者へ暴力的であること、そしてliliを溺愛すること。他者にとっては彼は懼れでしかないが、彼もまた恐れている。人を生身の見えるままリンチできない場面、liliが離れていくこと…鎧のような肉体を持つことも、関係しているのだろうか。
そしてshitaoという存在を恐れる。赦されることを拒絶しようとする。shitaoを「ああすること」で彼もまた、大きな十字架を背負っていきてゆかなければならない。
leeは、この恐ろしくも究極の弱さを抱える人間の極端のような人物を、厳然たる形(肉体)式美と考え抜かれたactionによって見事に体現していると思う。その明確なストイックさが、より高いところでこの役柄を成立させているとも感じる。
初めて作品を観たけれど、きっと彼の出演する作品にはそのストイックさに起因する品性がいつも漂っているのではないだろうか。
shitaoは、「癒す」以外のすべての欲求をもたない。liliの抱擁や、世話をするすべてのシーンでもわかるように、他者はかれにとって「何かを与える」ものでしかないのだろうか。彼は何者も望まない。その無垢な清さは、あらゆる穢れ淀みを抱きしめることで自らに移す。彼の無上の施しを受けたものは、それが治癒されると同時に彼から逃げるように離れていく。しかし彼自身は、激しい痛みに苦しむ。肉体的な傷がいつも彼の筋肉のない身体に纏いつき、「痛い」という感情‐あるいはその者がもつ穢れさえ受容することが彼に「癒される」状態を赦さない。神の子であったとしても、shitaoの肉体は土でできた人間なのだから。
彼は痛みを恐れている。それを吐露できたのは父の遣いが来てからのこと。堕天使に抱えられた彼は、あの後どうなったのだろうか。痛みから、その恐れから解放される人生は待っているのだろうか。
さて、キムラタクヤである。テレビドラマでの姿とはかなり異なる「居かた」をしているのは、きっと日本人で彼を知る人であれば誰にも明らかではないか。
しかし、私はこの作品での彼を「新境地」というよりも、むしろ「真骨頂」であると感じた。撮影時は35歳であるはずなのに、無垢であどけなくいたいけで、絶えず穢れていて強烈な美しさがそこにある。特に、shitaoが再臨し、天啓を受けるあの雨のシーンでは、それが顕著にあらわれている。(産まれたて、だから当然だが)
いつかの本で目にした「傷めつけられて初めて輝く木村拓哉」という題目を思い出した。作品のなかでは、殆ど話さない代わりに、shitaoという、(パンフレットで監督が自画自賛するように)アジアで初めての基督なる稀な存在を、見る者に否応なく納得させてしまう「何か」を持っている。(これはテレビドラマにも言えることだと思うけれど)
両性具有的な身体の特長においても、今回はフェティシズム傾向のエロスを際立たせることがわかる。つるりとして、すらりと細長い、それでいて挑発するような曲線は少ない。これがしなやかということなのか。
これは欲目かもしれないが、これまでのトラン監督作品において必ずヴィーナスはイェン・ケーであったのに、ここではキムラタクヤがその役目なのではないかと思う瞬間もあった。今までの映画作品でも、常にクリエイターのビーナスであったような彼だが、この作品はきっとその少ない作品群のなかでも不思議で、名状しがたい魅力をはなっているし、純粋に俳優キムラタクヤを考えるのに重要な役割を果たすと思う。
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…なんじゃこらな妙ちきりんな文章ですが;
この三人が揃うことはもうないんだろな~とおもうと、なんだか淋しくなったkonynonでした。
コメント
joshの鳶色の瞳は私も綺麗だなあ・・・と。
前半と後半(というか、ラスト)で色が変化した気がしたんです。
前半は暗く絶望と恐れの影がさしていたのが、donpoとの対峙シーンでは迷いや絶望を超えた、いわば虚無からくる強さ、みたいなものが感じられて。
だからあの「地獄を見た。お前など怖くない。」の台詞が生きたのかなぁ、と。
leeの演技をまともに見たのは初めてですが、上手い俳優さんですね。
konynon様のdonpoについての見解、私も同じことを考えてました。
>両性具有的な身体の特長においても、今回はフェティシズム傾向のエロスを際立たせることがわかる。つるりとして、すらりと細長い、それでいて挑発するような曲線は少ない。
素晴らしい表現ですね。
Shitaoは、性的に未分化な少年・・・というか、ほとんど幼児的存在でしたよね。
キムラが監督に何らかの形でインスピレーションを与えたのは間違いないと思います。
彼の佇まいそのものを、あそこまで生かしてくださってありがとう!!
と思いましたし、もしかして監督は私たちと同じ視線で彼を発見したんじゃないかな?と思うシーンが沢山ありましたから。
それをああいう形にしてくださったことが嬉しくて。
それにしても、あの3人・・・勿体無いですよねー・・・。
「あの」先を見たくてたまらなくなりました。
私は、写真でも映像でも人の瞳が語るものに注目してしまうのですが、今回はカメラが表情を捉えるショットも多かったのと、出演している俳優さんが「眼の表現」に長けていたので余計かもしれません。
光の通し方如何にしても、計算された風情?が感じられるんですよね。"あの"トラン監督だから鈍感な事をするとは思えないし。
木村さんの瞳は普段色素が薄いはずなのに、shitaoのそれはいつもオニキスの光を放っていました。
なんですが、一瞬瞳のなかの瞳孔がはっきり判るショットがあって、「…えぇぇ!」とちょっと良い意味でヒきました(笑)どんだけ澄んでるんじゃ、と。
図書館にあった少し古めの「アジア映画」に関するものがあったので今日読んでみました。「王家衛」と「トラン・アン・ユン」の両名には「アジアン・ヌーボーの旗手」と冠されていましたが、個人的にこの表現の仕方には凄く合点がいきました。
おそらくこの二人の作品に出演したのは、トニー・レオンと木村拓哉の二人だけではないでしょうか。非常に繊細で厳格で、他の追随を許さぬ敏感な美意識を持つ監督のフィルムに収まるというのはそれだけで俳優さんの財産になるでしょうが、反対に監督さんにとってその俳優が、inspirationを湧かせることができるという特性の証左にもなると私は思います。
王監督の場合は主に「顔の表情」(笑)とkissというactionに絞られていたような記憶がありますが、今回は文字通り裸=身体、ですからね~。
それまでトラン監督は木村さんの裸(身体)は多分観たことないはずですから、その発見やそこからうけるinspirationが、私たちにも伝わるくらいのレベルへ到達してるんじゃないかな、とも思いました。
>それをああいう形にしてくださったことが嬉しくて。
本当に、嬉しいですね~。ありがとうございます、って言いたくなります(笑)